1986年10月にデビューしたNSR250RMC16)で最大のライバル、ヤマハTZR250と同じ土俵に立てたホンダは、ここから怒濤の攻勢をかけて一気に市場を席巻していきます。そのポイントとなったのはPGM(プログラムド)システム。ファミコンと同じ8ビットCPUのECUに技術者の執念(怨念?)がこもったデータの書き込みがなされていったのです!

1年で27000台近くが生産された伝説の“ハチハチ”

「うぉおおおおおおおおおおおおお~~~っ!!!

大学時代、出たばかりの1988年式NSR250R(MC18)を速攻で購入した友人に「どうか乗せてください!」と頼み込み、何かあったら全額弁償+NSRを借りている間は筆者のVTZ250を自由に使ってOK+学食ランチ一週間分オゴる、を条件に交渉が決着。ディスカウントストア「ロヂャース越谷店」へ買い出しに向かう国道4号線バイパスで軽くスロットルをひねった瞬間、周囲の景色が加速度をつけて後方へ吹っ飛んでいき、ただもう叫ぶよりほかありませんでした。

NSR250R_1988

●1988年1月、初代NSRから2万円だけ高い57万9000円のプライスタグを引っさげ、2代目となるNSR250Rが登場しました。カタログを見比べてみれば、45馬力は変わらず最大トルクは0.2㎏mアップの3.8kgmへ。ただし装備重量は4㎏も重たくなり145㎏……。スペック大好き頭でっかちヤロウだった筆者からすれば「ふーん」と少し冷めた記憶があるのですが、大切なところを見落としてました。基本的に同じエンジンだというのに、なんと圧縮比が6.2から7.3へ劇的にアップしているのです。高圧縮比は高出力が出せるエンジンの必須条件。果たして初代を相手にしない強烈なパワフルさは口コミで広がっていき注文も殺到。熱き“ハチハチ伝説”の幕が上がったのです

 

出荷状態でも50馬力、ちょっとした細工をすればポンと60馬力以上出るというウワサは本当だったのでしょう。

200馬力に届いた現代のリッタースーパースポーツとはまた次元の異なる、軽量な2ストならではの加速感やハンドリングの切れ味は30年以上経った今でも強烈に覚えています。

●強烈なセパレートハンドルの垂れ角、カチ上がったテールにウレタン1枚のシート。ライディングポジションも相当な前傾姿勢を強いられましたが、超高性能なバイクいやレーサーを操っているのだから、それくらい当然……とレプリカモデルに対峙するライダーは全員納得していました。そんな時代だったのです。なお88年3月にはマグネシウムホイールとロスマンズカラーを採用した「SP」が当時価格66万円で発売開始されています

 

「NSRは電気が作った」とも言われている理由とは

そんな痛快無比な運動性能を生み出していたのは“ハチハチ”から導入され、以降飛躍的に進化することになるPGMシステム……つまり電子制御だと言っても過言ではありません。

PGMシステム図

●混合気を作るキャブレターとオイルポンプ、点火時期をつかさどるイグニッション、排気をコントロールするRCバルブ。それらを有機的に統合して瞬間、瞬間ごとの最適かつ緻密な制御を行うのがPGMシステム(RCバルブは“Ⅱ”以降)。理論に基づいたベンチテストとライダーによる実車走行テストを繰り返して得た膨大な実験結果をコンピュータにインプットすることで、パワフルかつフレキシブルな出力特性を具現化していったのです ※以降、図版はすべて1989年型NSR250R(MC18後期)のもの

 

「フューエルインジェクションならいざしらず、アナログ機構の塊であるキャブレターに電子制御?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、「PGMキャブレター」が制御していたのはメインエアジェット通路へ新たに設けられた空気の通り道を開閉するソレノイドバルブ。

PGMキャブレター

●PGM-Ⅱキャブレターシステム構造図。エア流量の制御は88モデルで2段階だったものが、89モデルのPGM-Ⅱ以降は4段階へと緻密化。なお、90モデルのPGM-Ⅲキャブレター以降、2個のソレノイドバルブは一体化され、よりシンプルかつ高効率な構造へと改良を受けています

 

それらをスロットル開度とエンジン回転数を感知&演算したECUの命令よって開閉し、濃くなりがちな混合気の濃度を補正することによって常に理想的な燃焼をサポートするというもの。

連動して点火タイミングを最適化する「PGM-CDI」も導入され、RCバルブの作動パターンが2段階になったことと相まって、どの回転域からでも自在に痛快なパワーを引き出せるフレキシブルなエンジンに仕上がったのです。

エレガントなパワーを出すための泥臭く大変な作業

ハイパワーを生み出すための各デバイスに「こういう状態になったら、こう動いてね」とECUが指示を出すためには、あらかじめ記憶装置へ仕込んでおく指示書が必要不可欠で、それがいわゆる「マップ(=地図)」と言われているもの。

PGM-Ⅱシステムマップ

●PGM-Ⅱ時代のシステムマップ代表例。各機構の2次元マップをスロットル開度ごとに重ねることによって、一番下のような3次元マップが完成するというわけです

 

文字通り、求める結果へ到達するための道すじが綿密に記載されたプログラミングで、NSR88モデルから導入したPGMシステムを3次元マップで制御しておりました。

......こちら、「ああ、そうなの」と聞き流されがちな開発エピソードなのですが、想像をしてみてください。たとえばアナタもこれまでの人生のなかで、何かしらの地図を紙の上に描いたことがあるはずです。おそらくはとても面倒くさかったことでしょう(笑)。

ではそれを3次元化してくださいと言われたら?

シースルーなガラス箱に地形を点描した数百、数千の薄く透明なプラスチック板を重ねて入れていけば、あるいはそれっぽいものが出来上がるかもしれません。

NSR250R_1989

● 1989年2月、“ハチハチNSR”からまたまた2万円アップした59万9000円で89モデルの販売が開始されました。あくまで88モデルのマイナーチェンジという扱いだったのですけれど、現実にはさらに発展進化したPGMシステム、キャスター角変更などの車体ジオメトリー見直し、前後ラジアルタイヤ化など変更点は多数。同年4月には“テラシルバー”を導入し、マグネシウムホイールと乾式クラッチ、減衰力調整機構付きフロントフォークも備えた「SP」が当時価格68万9000円(税抜き)でデビューしました。限定3000台は一瞬で売り切れたと聞き及んでおります

 

複数のデータを分析し、複数のデバイスを瞬時かつ同時に作動させる3次元マップとは、広大な電脳空間の中で実際のテストで得た最適と思われる数値をひとつひとつ打ち込んで、点を線にし、線を面にして作り上げていくもの。

そのデータ量が多ければ多いほど、その表面が滑らかになることはテレビゲームの進化が証明しているとおりです。

後日聞いた開発者の話によれば、サポートしてくれるアプリもなかった時代は、本当に泥臭くひたすら時間をかけてコンピュータ内へ座標を打ち込み、ようやく仕上がった!と思ってベンチや実走テストにかけると、速攻で不完全だった部分を指摘されて入力し直し......その繰り返しだったとか。

NSR250R_90

● 1990年2月、開発陣をして「NSRの完成型」と言わしめた“キューマルNSR”(MC21)。レースユースではライバルを圧倒する潜在能力を確保しながら、公道ではビギナーさえ許容するしなやかなシャシーを採用して乗りやすさをも実現。標準車は1万円アップの60万9000円、4月追加の「SP」は71万8000円、翌91年5月にはSPの仕様からマグネシウムホイールを省き、64万9000円という価格で人気グレードとなっていく「SE」が登場しました(上記価格は全て税抜き当時価格)。バイクがちょっと集まるところならどこへ行っても「カンカラカラカラ……シャーッ!」という“乾クラ”独特なサウンドが聴けたものです(笑)

 

ファミコン並みの頭脳でもやれることは山ほどあった!

これはもう単純にマンパワーと時間をどれだけかけたかが勝負を分ける世界。逆に言えば、やるだけやってノウハウが蓄積されていくとできることもどんどん広がっていき、NSRの場合はそれが性能アップに直結していったのだとか。

NSR250R_1990

●4年制大学をなぜか5年で卒業し、超就職売り手市場にあぐらをかいて数年は好きなことをしようとモーターサイクリスト編集部でアルバイト生活をしていた1990年代初頭。ついに筆者もNSR250Rを入手いたしました。2年落ちの90年式標準車(写真)で40万円程度だった記憶が……今なら信じられない値段ですね。さっそくロヂャース越谷店へ向かいましたが,確かに88のような突き抜け感は薄れたものの、低回転域から太いトルクが盛り上がり乗りやすさは抜群。絶大なる安心感とともにクルンクルン曲がってくれるハンドリングも最の高でした。「チャンバーはどこのを付けようかなぁ」と悩んでいるころ、あっさり盗難されてしまい奇跡的に車両は戻ってきたものの全身アララララ状態。それでも望外の値段を提示してくれたレース好きの友人に売却してしまいました。今思い出してみると非常に惜しいことをしました……

 

実際、89モデルのPGM-ⅡになるとRCバルブもPGM制御となり、90モデル(PGM-Ⅲ)ではスロットル開度だけでなくギヤポジションも感知して制御に組み込まれ、94モデル(PGM-Ⅳ)ではそのギヤ段数情報が減速比演算に置き換わると同時にCPU8ビットから16ビットに変更され、マップはさらに高度化してより滑らかな形状へ到達! 

そのデータをカードキー内に組み込むことで防犯性を高めると同時に、レース使用時向けの出力特性変更さえ簡単にできるようにしたことも大きな話題となりました。

● 1993年11月、最後のフルモデルチェンジを受けたNSR250R(MC28)が登場します。現在は撤廃されていますが、当時は厳然と存在していた馬力自主規制に対応して最高出力は40馬力へ低下(巧みな電子制御で公道走行でも2ストらしい爽快な吹け上がり感を十分に味わえましたけれど……)。スイングアームはガルアームから片持ち1本のプロアームへ変更され、そして何といっても世界初のPGMメモリーカード・システムの採用がトピックでした。標準車は68万円、SEは72万円、そして同年12月発売のSPは80万円というプライスリスト(上記価格は全て税抜き当時価格)。すでに時代はゼファーシリーズの大ヒットに代表されるネイキッドブームに移行しており、牙を抜かれたレーサーレプリカモデルへ注目するユーザーは少なくなっていました

 

カードキー

●スコン!とカードキーを車体側へ押し込めば、ハンドルロックが解除され、エンジンが始動可能な状態に……。タンクや小物入れ用のアナログキーは写真の黄色い部分を引っ張ると出てくる仕組みでした(本来は黒色)。このあたりの面白い話は、ぜひ「モーサイ」をご覧ください。タンクの上でキーをかざしている写真には28年前の筆者の手が写っています(笑)

 

進み続ける歴史に「たられば」はないのですが……

ただ、正直言って89モデル以降は持てる圧倒的なポテンシャルを無理矢理押さえ込んで、しがらみだらけの市販可能状態へ持っていく……という、ある意味ネガティブな方向への抑制が働いていたことは否定できません。

参戦への敷居が低く大盛況だったSPレースもベース車両の超高性能化(=高額化)に付いていける人が少なくなり沈静化。

最終的には厳しくなるばかりの排出ガス規制にトドメを刺され、96モデルをもってNSR250Rはその生産を終了いたします(販売は1999年ころまで継続)。

NSR250R_1996

●1996年、最後に生産された「SP」はレプソルカラーでした(1000台限定。税抜き80万円)

 

非常に完成度の高い最終型である9496モデル(MC28) が1万台に満たない生産台数にとどまったことは残念ながら、初代からのトータルとして実に116000台以上のNSR250Rが世に送り出されたことは、まさに奇跡的なことだと言っても過言ではないでしょう。

状況が許せば、ぜひアナタもNSRを手に入れ、2ストロークならではの二次曲線的な加速力を体験してみてください!

NSR250R_レッドバロン

●程度のいい残存個体数が比較的多い1990〜93年式NSRですら、もう30年前の中古車です。ホンダ自身も純正部品を再発売して熱心なファンへ応えようとしておりますが、やはり手に入りにくくなっているパーツも多数出ているとか。そんなとき、広大な本社工場内に莫大な数のパーツをストックしているレッドバロンなら安心感が違います(本当に忖度ではなく)。全国約300店舗に並ぶ常時約4万8000台の在庫内にはNSR250Rも多数あり。せひお近くの店舗へフラッと寄って確認してみてくださいね

(終わり)

NSR250Rという奇跡:前編 〜誕生前夜 HY戦争後に2度の敗北〜

NSR250Rという奇跡:中編 ~打倒TZR250! 起死回生の要は排気デバイス~

SHARE IT!

この記事の執筆者

この記事に関連する記事