いま50代半ばの僕らは「バブル世代」とも呼ばれる。つまりそこには、90年代のバブル景気に浮かれた世代、という揶揄が込められているのだが、思えばこれまでの人生、確かにさまざまな“ブーム”に乗せられ、流され、踊らされてきた。

その中でもとくに僕の人生に大きな影響を与えたのは、小学生のときに洗礼を受けた“スーパーカーブーム”。そして中高の青春時代まっただ中、80年代に巻き起こった“バイクブーム”だ。たしかに僕が大人になり、自動車やバイク雑誌の編集者という仕事に就いたのは間違いなくそのせい? いや、そのおかげ? なのだ。

僕がバイクに目覚めたのは1983年、16歳のときだ。初めて買ったバイク雑誌月刊『オートバイ』がまるで電話帳のように分厚かったのを覚えている。83年はレーサーレプリカ・モデルの魁となったスズキRG250Γ(ガンマ)がデビューした年。つまりその後10年近く続く、激烈なニューモデル競争の幕開けだった。

僕は16歳で原付免許を取得。バイト先の先輩から譲ってもらったスズキRG50Γに乗っていた。17歳で中型二輪免許取得。当時人気だったホンダVT250F(初期型)を中古で購入。ライダーとして着実に?ステップアップしていた。

スズキRG50Γ

バイト先だった地元スーパーの前で愛車の50Γにまたがりピースサインを決める16歳の筆者。『あいつとララバイ』の研二くんに憧れていた(涙)

 

80年代当時、バイク好きの若者には“絶対にやらなければならない”2つのことがあった。ひとつは「北海道ツーリング」。もうひとつは「鈴鹿8耐観戦」である。どちらも夏の真っ盛りに行われるものだったが、僕が先に実現したのは鈴鹿8耐詣でのほうだった。

80年代の8耐はとにかく凄かった。ひとつのピークとなったのは1985年、あの“キング”ケニー・ロバーツと日本人トップライダーの平忠彦のペアで「TECH21ヤマハ」が参戦した年だ。7時間以上を経過した時点で勝利目前だったTECH21チームは、ゴール30分前にマシントラブルでストップ、無念のリタイア。そのあまりにドラマチックな結末は語り草となった。その年の決勝日の観客動員はなんと15万6000人を記録した。東京ドーム超満員×3回ぶんの観客がサーキットに押し寄せたのだ。

MOTONAVI鈴鹿8耐特集号

僕が編集長を務めていたときにつくった『MOTO NAVI』の鈴鹿8耐特集号。表紙は85年のケニー・ロバーツ。美しいハングオンスタイル。

 

僕が当時、8耐に足を運んだのは87年、88年、89年の3回だ。まさに8耐の人気が絶頂を極めていたとき。決勝日の観客動員も毎年15万人を越え(史上最高となったのは1990年の16万人)ムーブメントとなっていた。

当時の“熱狂”を体感したエピソードを、僕は今も鮮明に覚えている。今回、知り合いから借りた当時の写真(スナップ写真ゆえ画質の粗さが却ってリアリティを感じさせる)とともにそれを紹介しようと思う。

1987年鈴鹿サーキット周辺

この写真、ちょっとわかりにくいかもしれないが、おそらく鈴鹿サーキットのバイク駐輪場を撮ったものだろう。僕はバイクではなく、仲間4人とハイエースに乗って鈴鹿を目指したのだが、7月最後の週末となる金曜の夜中、鈴鹿周辺の高速を降りると、すでに大渋滞でまったく動かない。道はバイクとライダーたちでギッシリ埋め尽くされている。

渋滞を乗り越え、やっとの思いでサーキットにたどり着くと、夜中だというのに駐車場はお祭り騒ぎ。2スト、4スト、かん高さと野太さの入り混じった排気音が響き渡り、ガソリンとオイルの匂いが充満している。しかしそれがまたテンションを高めるのだ。ウイリーしながら走り回るアンちゃんたち。海辺に来たかのような露わな格好で歩き回るネーチャンたち。正直、レースのこと(チームとかライダーとか)はよくわかってなかったのだが、とにかく「すごいところに来たゾ!」とコーフンしたのだった。

1987年鈴鹿8耐

1987年鈴鹿8耐

明けて土曜は当時“ライダーの甲子園”とも言われた、ノービスライダーによる4時間耐久レースの決勝。そして日曜はいよいよ8時間耐久の決勝が行われた。決勝日15万人超の観客……というのがいったいどれぐらいすごいかというと、たとえるならサーキット中が満員電車のような感じ。やっとの思いで観戦スペースを確保したあと(もちろん指定券など持っていない)、「ノド乾いちゃったからジュース買ってくるわ」と売店に出かけたところ、人をかきわけ売店に行く→並ぶ→ジュースを買ったあとトイレに寄る→並ぶ→人をかき分け席に戻る、という具合でジュースを買って戻ってくるのに2時間以上。

1987年鈴鹿8耐

ちなみに8時間の耐久レースは、スタート後の30分とゴール前の30分以外は、見ていなかった。前述のようにジュース買いに行ったり、キャンギャルを撮影しに行ったり(当時のハイレグ衣装はすごかった……)、あとはあまりの暑さにダウンして、日陰を探して寝ていたような気がする。

もちろん真剣にレースを観ていたファンもいるだろう。だが当時の感覚では15万人のうち8割方は僕のような“お祭りに参加しにきた”フワフワ野郎だったように思う。

1987年鈴鹿8耐

こんな女の子たちもたくさんいた。これは写真を貸してくれた知り合いの当時の彼女(らしい)。ヤロー4人で観に行ってた僕らにとって、こんな素敵な彼女連れは明らかな“勝ち組”であり、羨望の対象だった。で、我われはその悔しさを晴らすようにハイレグキャンギャルの写真を撮りまくった。コニカの「ビッグミニ」で。ワイルドだろう?

1987年鈴鹿8耐

ヤマハ「TECH21」チームは、薄いパープルの車体カラーが萌えだった。今や「資生堂」がバイクレースのスポンサーをするなんて考えられないが、当時はアパレルブランドや食品メーカー、不動産会社など、さまざまな分野の大企業が8耐出場チームのスポンサーをしていたのだ。

1987年鈴鹿8耐

シルバー×ブラックのシックなカラーは西武グループでトレンディなファッションを扱った「SEED(シード)」がスポンサーしていたホンダのファクトリーチーム。“シンデレラボーイ”と呼ばれた伊藤真一さんは88年、このSEEDホンダのライダーに抜擢され8耐初出場、7位入賞を果たしている。

1987年鈴鹿8耐

これも80年代の二輪レースではおなじみだった「TERRA」カラーのマシン。TERRAは味の素が販売していたスポーツドリンク。あれ?いつの間にかなくなってたな。ちなみに飲料や食品メーカーのスポンサーは多くて、有名なところでは日清食品も「カップヌードル」で青木3兄弟などをスポンサーしていた。余談だが後にタレントとして活躍する岡本夏生さんやZARDで活躍する坂井泉水さんもカップヌードルのレースクイーンをしていて、当事の8耐で目撃したのを覚えている。

80年代、バイク小僧として8耐を観に行った僕は後に編集者となり、『MOTO NAVI』なるバイク雑誌を立ち上げた。そして2000年ごろからは“取材”として8耐に通うようになるわけだが、8耐への愛が通じたのか? いつしか8耐を盛り上げる側として参加させてもらうようになった。

 

2015年鈴鹿8耐

8耐のイベントステージで「MOTO NAVIステージ」を設けることになり、そのMCとしてさまざまなトークショーの仕切りや進行を任されたり。

 

2015年鈴鹿8耐

憧れのレジェンドライダーのみなさんとも交流をもたせてもらうようになった。8耐のバックステージにて、左から伊藤真一さん、僕、梁 明さん、岡田忠之さん。あのころ8耐でレースも見ずに寝ていた自分に教えてやりたい。「おまえ、すごいライダーの方々と話ができるようになるぞ!」

2015年鈴鹿8耐キアヌ・リーブスと

最後にもひとつ。2015年、なんと8耐のゲストにハリウッドスター、キアヌ・リーブスさんが来場した。鈴鹿サーキットから「キアヌさんのトークの相手をしてほしい」と連絡が来たのは数日前。英語もおぼつかない僕はドキンチョーで当日を迎えたのだが、キアヌは大のバイク好き&とても気さくな性格で、トークはおおいに盛り上がり、お客さんも喜んでくれた。8耐のイベントステージMCを10年ほど務めたが、あんなに人が集まったことはなかったと思う。

8耐は80年代の“熱狂”の時代を終えた後、90年代後半から2000年代にかけては往時の3分の1ほどまでに動員を減らしたが、じつは2013年ごろからはふたたび、徐々にではあるが動員を回復させてきた。だがご存知のように2020年はコロナウィルス蔓延の影響により中止、残念ながら2021年も中止のアナウンスがなされた……。

だが2022年こそは!また僕らライダーにとって欠かせない“真夏の祭典”が戻ってくるのを期待している。

風がふたたび、鈴鹿に吹く日を。

 

 

 

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