’21年11月14日のモトGP最終戦・バレンシアGPをもって、バレンティーノ・ロッシが長きにわたるレース人生にピリオドを打った。やれるだけのことをやった42歳・不屈のライダーに対し、青木宣篤氏が惜別の辞を贈る。
●文:ヤングマシン編集部 ●監修:青木宣篤 ●写真:Shutterstock Redbull Honda Yamaha Suzuki MotoGP.com Monica
いくら努力を重ねても、脊髄反射には敵わない
寂しい反面、「だよな…」という思いもあった。モトGP第10戦スティリアGPが開幕されようかという’21年8月5日、バレンティーノ・ロッシが特別記者会見を開き、「今シーズンをもって現役から引退する」と発表した時のことだ。
きっとロッシは、ワタシたちが想像する以上に悩んだことだろう。ここ数シーズンのパフォーマンスやリザルトを冷静に眺めれば、引退という決断も致し方なし、という部分はどうしても出てくる。
本人も会見で「スポーツは結果がすべて」というようなことを言っていたが、まさにその通りである。特にモトGPは、各メーカーが威信を懸け勝利に向けて研鑽する究極の場だ。厳しい言い方になるが、勝てる見込みがないライダーに居場所はない。
ワタシは、今季もロッシは(うまくすれば)勝てるライダーだと思ってきた。彼が人一倍努力し続けていることを知っていたからだ。
ライディングのトレンドが変化すると、いち早くこれを採り入れた。言葉にすると簡単だが、長年体に染みついた自分のスタイルを打ち崩し、変化させるのは極めて大変なことなのだ。
ヤングライダーの育成目的で設立したVR46アカデミーでも、若手を差し置いてガムシャラに走り込んでいた。オフロードでのバイクトレーニングは年齢を重ねるごとにキツくなっていくものだが、ロッシはそれを厭わなかった。天賦の才に、研鑽を加え続けたのだ。
ワタシの見立てでは、ライダー史上もっとも努力したのがロッシという男だ。それでも残念ながら、最近のロッシは精彩を欠いていた。50歳になってまだ鈴鹿8耐参戦を諦めていないワタシとしては、年齢を言い訳にはしたくない。だが、若い頃のようにバイクの上で体を動かせなくなるのも事実だ。
考えて体を動かすことはできる。だが、考えなくても脊髄反射的に体を動かす能力が衰えるのだ。こればかりはいくら努力を重ねてもどうしようもない。もし克服できたら、それはもはや現代医学を超越した不老不死の領域である。
おそらくロッシも、思うように動かない自分の体に限界を感じたに違いない。いくらトレーニングしても、いくら頭を使っても、ヤングライダーが脊髄反射で走ってしまう勢いには敵わないのだ。
それが冒頭の「だよな…」である。ロッシも人の子。いつか幕引きが来ることは、誰もが分かってはいたことなのだ。
スポーツはリザルトがすべて。だがロッシは、リザルトに関わらず人々を魅了する存在だった。モトGPが興行的に成功しているのは、ロッシの影響が大きい。そして、カッコいいままで終わろうとしない。苦しみもがく姿を見せながら、最後までモトGPライダーであり続けた。
純粋に好きだから続けてこられた
500ccクラスで2年、モトGPクラスでも2年を過ごしたホンダ時代は、ロッシ持ち前の能力とマシンの高いパフォーマンスがバチッと噛み合って、ほとんど労せずして勝てていたことだろう。
特にモトGP初期のホンダRC211Vは、他メーカーに対してかなりのアドバンテージがあった。これを才能あふれるロッシが走らせるのだから、勝ちまくったのも頷ける。
ロッシが努力を始めたのは、衝撃のヤマハ移籍を果たした’04年からだと思う。マシンのメーカーを変えることは思っているよりもタフだ。それに当時のヤマハは、性能面でホンダに水を開けられ苦しんでいた。
そういった厳しい状況をものともせず、ロッシは移籍初年度にいきなりタイトルを獲得してしまったのだから、これはもう彼自身の努力の賜物でしかない。開発にも積極的に関わりながら自分自身を高めると同時に、ヤマハYZR-M1も高めていったのだ。
125cc/250ccのアプリリア時代のロッシは、天真爛漫なパフォーマンスと持ち前の速さで、人々の心を惹きつけた。
500cc/モトGP初期のホンダ時代は、圧倒的な強さでライバルを引き離すことで王者としての風格を身に付けた。
そしてヤマハ時代、自分とメーカーの力を引き上げるという努力の成果を見せることで、いよいよ伝説の男になったのだと思う。天才ケーシー・ストーナーとの激しい攻防も華を添えた。
彼にとっては黒歴史とも言えるドゥカティ時代を経て、ヤマハに復帰してからも’14~’16年にランキング2位につけた。ロッシはすでに30代後半だったが、自分よりひと回り以上年下のマルク・マルケスといった若き新興勢力と堂々わたり合ったのだ。
本当にスゴイことだ。35歳を過ぎてからの1年1年は本当に大きいのだが、これを埋めていったのは、繰り返しになるが彼の並外れた努力でしかない。
エンジンが4ストローク化してモトGPとなった時、ロッシはホンダで大活躍。ロッシ人気とモトGP人気は完全にリンクした。
ホンダからヤマハに移籍してからは努力を重ね、若いライバルたちとつば競り合いを繰り広げながらタイトルをもぎ獲った。
’11~’12年はドゥカティに。勝つことはできなかったが、今のドゥカティ好調の基盤となるマシン開発を推進。その後再びヤマハへ。
ラストイヤー’21年はヤマハのサテライトチームへ。精彩を欠いた苦しいレースが続いた。
だが、ワタシは知っている。ロッシは子どもの頃から何も変わっていないことを。まだガキンチョだったロッシは、とにかくバイクとレースが大好きだった。
スーパースターになった今、彼に近付くことはなかなか難しいが、それでもふとした時に顔を合わせれば、あのガキンチョ時代のままに、明るく陽気にバイクのこと、レースのことをしゃべりまくる。
まさに「好きこそ物の上手なれ」。もともと天才的な能力を持っていたうえに、バイクやレースが好きで好きで仕方ないから、努力を努力とも思わずに継続し続けることができたのだろう。
ライディング面で言えば、ロッシの最大の武器はブレーキングだ。彼はコーナー進入時に奥の奥まで突っ込んでライバルを交わすことができるハードブレーカーでありながら、コーナリング中やコーナーからの立ち上がり加速中にも繊細にコントロールするワザも持ち合わせていた。
今の若いモトGPライダーに照らし合わせると、面白いことが分かる。ハードブレーカーとしての能力はマルク・マルケスに引き継がれ、繊細なコントロール能力はファビオ・クアルタラロに受け継がれているように思えるのだ。
ふたりとも幼い頃にロッシをアイドルとして憧れてきた世代だ。彼らがモトGPを牽引していることを考えれば、改めてロッシの影響力の大きさに驚かされる。
ずっとファクトリーチームで戦ってきた彼が、最後のシーズンの’21年はサテライトチームにいた。プライドを捨て、モトGPライダーで居続ける道を選んだのだ。そこまでしがみつこうとする気力、覚悟、勇気、環境を整える力、そしてレース愛こそを、若いライダーたちは見習ってほしい――。
【子どもの頃から変わらない”バイク&レースマニア”】少年時代のロッシ。[上]ワタシ(宣篤)と。[中]弟の治親と。[下]カルロス・チェカと。GPライダーたちを前にハイテンションだった。彼のレース愛は今も変わらない。
合計9回の世界チャンピオンを獲得。まさに”生ける伝説”の名にふさわしい。
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