ForR執筆者それぞれが、空前のバイクブームと呼ばれた我が国の1980年代を振り返ってみたらどうなるか。当時、何歳だったかで見え方はいろいろだろうが、1963年生まれの筆者の場合は、まさにブームの渦中にいた。いわば、時代の当事者だ。80年代の夜明けを16歳で迎え、ソフトバイクを購入。83年には上野のバイク街で中古のヨンヒャクを買い(19歳)、86年には鈴鹿8耐の観戦ツーリング(22歳)、やがてバイクなしでは生きていけない精神構造となり、同年にはバイク雑誌の世界に入り、今に至る。考えようによっては、筆者の心の中では80年代バイクブームはまだまだ続いているともいえるのだ。(本稿は敬称略)

〈1980年〉マニュアル車か、ソフトバイクか

 高校1年で迎える誕生日は、特別なものだった。16歳になれば、バイクの免許が取得できるからだ。といっても普通科の高校生が取得できるのは(筆者の場合)、校則上、原付までだった。仮に「中免(現在の普通自動二輪免許)」があれば、1979年に販売がスタートした400㏄4気筒モデルのカワサキZ400FXにも乗れるとはいえ、そもそも買うお金もない。狙うのは原チャリだ。


 バイトしてお金を貯めながら(地方都市だったので時給350円)、やがて原付免許を取得。さて、何を買う? ホンダが1979年に発売した2スト50㏄ロードスポーツ・MB50は新車で136000円。粋がりたい男子高校生としては、マニュアル車を買うのが常道とも思えるが、当時は女性向けにシフトチェンジ不要の「ソフトバイク」なるジャンルのモデルが格安で販売、中古市場にもあふれていた。ヤマハが1977年に発売したスクータータイプのソフトバイク・パッソルは、新車で69800円。中古だと5万円を切り、となれば高校生の財力でもどうにかなる。原チャリなんて、どうせゲタ代わりなんだしと、ソフトバイクを選ぶ男子高校生も数多くいたのである。

ヤマハTOWNY

 女性のお買いもの用としてはもちろん、男子高校生のゲタとしても大人気だったソフトバイク。1980年にはヤマハが「男のソフトバイク」と称してタウニーを発売(89800円)。車体やタイヤサイズが大きくて大柄な男性にも乗りやすく(グッドデザイン賞も受賞)、テレビCMには「ナベサダ」の愛称で人気を博したジャズ・フュージョンのサックスプレーヤー渡辺貞夫を起用したことから話題に。CMのセリフ「いいなあ、これ!」は流行語にもなった。筆者がファーストバイクとしてタウニーを選んだのは、ナベサダのファンだったという点が大きい。そう、テレビCMの影響って大きいのだ。当時はバイクのCMがたくさん流れていたのですよ。今の若い方は想像できないでしょうが。

片岡義男さんの影響力は大きかった

 80年代のバイクシーンを語る上で、絶対に外せない小説家。それが片岡義男だ。日本で最も多くオートバイ小説を生み出した作家といって間違いないはずだ。1975年に発表した『スローなブギにしてくれ』は直木賞候補にもなり、1981年には映画化。この映画で初主演を飾ることになった女優の浅野温子は、その小悪魔的な魅力で17歳の筆者をすっかり虜にした。作詞:松本隆、作曲:南佳孝、編曲:後藤次利によるオリジナルサウンドトラック『スローなブギにしてくれ(I want you)』も大ヒット、今も筆者の大切なヘルメットソング(※)である。

 ※ヘルメットソング……バイクの走行中、ヘルメットを被った状態で好んで歌う曲。声を出して歌う以外に、鼻歌の場合もある。気分が乗ってくると、信号待ちで停車中の状態でも無自覚に歌っていたりする。歩行者や他のクルマの運転手に見られた際に恥ずかしい。カメラマンのホッカイダー小原信好の造語[要出典]。

片岡義男

 右は1975年に角川書店が発行した単行本。左は1983年発行の角川文庫(表紙や中面に使用されている写真のモデルはご存知、三好礼子)。当時、片岡義男の小説は売れに売れ、筆者もバイト代で文庫を買いあさり、そのほとんどを読破したので影響を受けまくった。西海岸ファッションを扱う雑誌『POPEYE(ポパイ)』によってアメカジが流行っていたこともあり、片岡義男作品によく登場したHanes(ヘインズ)の白いTシャツとLevi'sの501はマストアイテム。これにフライトジャケットMA-1を羽織るというのがお決まりで、渋谷・公園通りですれ違う若い男のふたりにひとりが筆者と同じ格好だった[要出典]。MA-1のごついフロントジッパーからは走行風が容赦なく吹き込み、冬のライディングにはまったく向かなかった。ちなみにバイクに乗る際の勝負服は革ツナギ、というのも「80年代あるある」だ。

ライダーの真夏の祭典、鈴鹿8耐は熱かった

 1983年にバイクの保安基準が改正、セパハンやレーシーなカウリングが認可されたことからスズキRG250Γ(ガンマ)が誕生。「これで公道を走っていいの!?」と誰もが目を疑った。レーサーレプリカ・ブームの始まりだ。このころから80年代バイクブームは、ビッグウェーブが続いていったと記憶している。
 東京・上野の国道4号線沿いには大小のバイク販売店が軒を連ね、通称「上野バイク街」として大勢のライダーを集客。路肩には数百mに渡って客のバイクがズラリと並んでいた。ちなみに地方から上京して右も左もわからない19歳の筆者は上野の光輪モータースで中古のGSX400Eを購入(18万5000円)。納車日にはまっすぐ横浜ケンタウロスのお店に向かい、店にいたボスからステッカーを直接買わせていただいたことは青春の思い出だ。
 筆者に限らず、80年代の夏は熱かった。ライダーたちの真夏の祭典、鈴鹿8時間耐久レース。82年に公開された大藪春彦原作の映画『汚れた英雄』(主役は草刈正雄。映画はロードレースを舞台にしたもの)も人気に火をつけ、全国のライダーが一流レーサーたちの激走ぶりを観戦しようと鈴鹿に集結した。観客動員数は約15万人といわれており、その中のひとりに22歳の筆者もいた。

鈴鹿8耐

 1986年7月のことだ。バイクをCB250RSに買い替えており、軍資金が乏しかった。だから東京から三重県の鈴鹿サーキットまで、シタミチ(高速道路ではない、一般道のこと)で行った。

鈴鹿8耐

 鈴鹿8耐の開催期間は、テント泊で夜を過ごした。サーキットの敷地内にボウリング場があり(名称「サーキットボウル」。2021年2月に惜しまれつつ営業終了)、その駐車場の隅をテン場にした。そこには境遇を同じくするライダーたちのテントがずらりと並んでいた。祭りの夜はいつまでも騒がしかった。夜半、破裂音が聞こえて、翌朝になって「誰かがふざけてマックスターンして、タイヤをバーストさせちゃったらしい」なんて話を聞いた。15万人ものライダーが一ヵ所に集まってお祭り騒ぎをするんだから(それも今と違ってみんな若かった)、当時はそれぐらいのことはあって当たり前だった。

1980年代

 8耐が終わった後は、高速道路で東京へ。鈴鹿の現地で合流した仲間たちと一緒に。スマホもない時代に、広い鈴鹿サーキットのどこでどう待ち合わせをしたのか、記憶がない。右から2台目が、筆者のCB250RS。軽く、バンク角が深く、峠ではヒラヒラとコーナリングできることからナナハンキラーなんて呼ばれていたが、ナナハンはおろか他の3台のヨンヒャクにすら勝てた試しがない。次は自分もレーサーレプリカに乗ろう、そう決意して秋にはスズキGSX-R(400㏄)を中古で買うのだった。

バイク雑誌がジャンルごとに専門化していった

 鈴鹿8耐に15万人もの観客が押し寄せたあの時代は、ツーリングも大人気。夏の北海道へバイクで出かけるライダーの数も年間15万人近かったと聞く。夏のフェリー予約は超難関、乗船できても2等船室は雑魚寝の状態。道内の人気ルートを走ると、何十台ものバイクと続けざまにすれ違うので、ピースサインをひっこめる暇がなかったという逸話もある。

アウトライダー創刊

 そうした時代背景があったからだろう、86年、日本初の月刊ツーリングマガジン『アウトライダー』が創刊する。衝撃を受けた筆者は同年、編集部(その古ぼけた雑居ビルの一室は、三島由紀夫が割腹自決した陸自の市ヶ谷駐屯地を見おろす場所にあった)の門戸を叩き、学生アルバイトとして雇ってもらえることに。

 ツーリング雑誌だけじゃない。当時は個性的なバイク雑誌が次々に誕生した時代だった。社会的な記事にも力を入れていた『ザ・バイク』、カスタムならおまかせの『ロードライダー』、レース系なら『ライディングスポーツ』、オシャレな大人の『ゴーグル』、エンスーな『クラブマン』、オフ専門の『ガルル』、女性ライダーのための『レディスバイク』などなど、百花繚乱。


 バイクの魅力や楽しみ方は、それだけ多岐に渡るということだ。こうした専門誌が80年代にいくつも立ち上がり、それぞれのジャンルを深堀りしながら広めていったことは、90年代以降のバイク・シーンに大きな影響を与えていくことになるのだが……。
 と、今回はここまで。80年代バイクブームの渦中にいた筆者は、この時代の話になるとコーフンして話が長くなりすぎ(笑)。激アツの80年代後期、バブル時代の話はって? 次の機会にしましょう。
 お伝えしたいことは、いっぱいありますから。ではまた!

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