1980年から始まった熱狂的なバイクブームの起点となったのがヤマハRZ250であることに異を唱える人はいないでしょう。自他共に認める“2ストのヤマハ”はしかし、4ストヒットモデルをどこより渇望するメーカーでもありました。折しも“4ストのホンダ”との「戦争」で一敗地に塗れた悔しさをバネに、奮起した若手開発陣が秘密裏に創出したのが異次元の4ストクオーターだったのです!
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毎週のようにニューモデルが出てきた異常な事態
HY戦争……。
1970年代後半から国内バイクシェアNo.1(=世界一と同義)の座をかけたホンダとヤマハのタイマン勝負は、今でこそネットで検索をかければウィキペディアを始めとして、勃発の背景から推移、終焉に至るまでの経緯が山ほど出てきますが(興味があれば……いや、なくてもバイク好きなら是非一度はご確認のほどを)、筆者がアルバイトとしてMCことモーターサイクリスト編集部に潜り込んだ1990年ころはまだ話題として、な~んとなく触れるべからずな雰囲気が漂っておりました。
そりゃそうですわな、バイク雑誌にとって文字どおり一、二を争う重要クライアント様である2社が竜虎相打つ(泥沼な)販売競争を繰り広げ、結果的にホンダのアンビリーバブルな新車大攻勢を受けてヤマハが1983年、ついに白旗を上げた……というドラマチックに過ぎる展開が約40余年前、このニッポンで確かにあったのですヨ。
HY戦争当時、筆者はバイクに興味を持ち始めたばかりの小~中学生だったため、そんな企業間闘争が繰り広げられていたとは全く理解していなかったのですが、ソフィア・ローレンさんや八千草 薫さんのテレビCMが、お茶の間にやたらと流れだしたなぁと思っていたら、
近所に住むオバちゃんたちが先を争うようにソフトバイク(死語?)やスクーターに乗り始め、お兄ちゃんお姉ちゃんたちは颯爽とゼロハンスポーツにまたがり、父や母や祖父や祖母が(レジャー)バイクやカブにでも乗っていようものなら、その同級生は一躍クラスの人気者に成り上がる……という異様な世界が突然到来して驚きました。
「ちょっと前はただの自転車屋さんだったよなぁ」という小さなお店の店内や軒下にも、ズラリとロードパルSやらパッソーラやらタクトやらベルーガやらジェンマなどが赤札を貼られてあふれかえっていたのです、筆者の故郷である山口の片田舎でさえ!
大戦の終わった焼け野原に希望が芽生えた
そんな乱売合戦の末に敗れたヤマハは数百億円単位の赤字に陥り、指揮を執った社長や役員は退任や降格、従業員も約700人が合理化されるなど、会社の存続すら危ぶまれるほどの窮地に陥りました。
……のですけれど、かくいう大ピンチが“FZシリーズ”誕生の導火線ともなり、ヤマハ反転攻勢のキッカケにもなったのですから、本当にこの世というのは面白いものです。
さて、当時250㏄4ストスポーツの世界は絶対王者、ホンダ「VT250F」が君臨していた時代。
いやもうとにかく売れた売れた売れたったら売れました。
1982年6月に市場へ投入された初代「VT250F」はハイパワー化には不利とされる4ストロークでありながら、2ストの初代「RZ250」と同じ35馬力を発揮するV型2気筒エンジンを搭載してライダーたちのドギモを抜き、一躍大ヒット街道へ。
1984年2月には2スト勢が軒並み45馬力領域へ行ってしまったあとも、4ストとしては依然ナンバーワンの40馬力を発揮する2代目へと進化を果たし、人気はさらに加速していきました。
なんとVT250シリーズは、登場以来34ヵ月で販売累計10万台を達成してしまいます。
これはもちろん空前絶後の大記録! 単純計算で1ヵ月当たり2941台強……それが1年続くと年間販売台数は3万5294台強!?
まぁ、とにもかくにもドエライ数字です(偉業達成を記念した2タイプの特別仕様車も発売されるほど)。
そんな“超”のつく快進撃を目の当たりにしていたヤマハの重役や役員たちは、「VTシリーズと同じ250㏄V型2気筒のハイパワーエンジンでVTキラーを作れ」と開発陣へ強く指示。
しかし、開発の現場ではHY戦争の直後ということもあって若いエンジニアに好きにやらせようという機運が高まっており、中間管理職クラスの技術者は上層部から降ってくる「Vツイン! Vツイン! Vツイン!」という矢のような催促をうま~くはぐらかしつつ、若手の意欲的なチャレンジを擁護したとか。
「他車のマネでは結局、勝てない」という世界GP500㏄クラス、スクエア4エンジンで快進撃を果たしたスズキRG500シリーズを横目に同じスクエア4を作り上げて搭載するも(1981年0W54、1982年0W60)苦汁を飲んだYZR500開発の反省がそこにはあったのかもしれません。
Vツインではなくインライン4で250クラスの頂点へ!
「次世代のスポーツバイクとは、どのようなものか?」
熱意全開の若手エンジニアが激しく議論を戦わせた中からヤマハ独自の設計思想“ジェネシス”が生まれ、その具現化された姿として、まずは5バルブナナハンの「FZ750」と、“スーパークオーター”を標榜する「FZ250フェーザー」が1985年4月、華々しくデビューを果たしたのです。
フェーザーが選択したエンジン形式は、4スト水冷並列4気筒DOHC4バルブというもの。
250㏄の並列4気筒エンジン自体はスズキが1983年に登場させた「GS250FW」で採用していたものの、そちらは1気筒当たり2バルブで最高出力は36馬力というスペック、かつ乾燥重量も157㎏(装備重量174㎏)と重めなものだったため、1ヵ月前に出た同社の「RG250Γ」のハイパフォーマンスぶりに大騒ぎだった当時では悲しいくらい話題にもならず……。
そんな経緯はさておき、ヤマハの若き開発者たちは250㏄並列4気筒エンジンの可能性を徹底追求することでVT250Fを凌駕することはもちろん、すでに軒並み45馬力を誇っていた2ストレーサーレプリカ軍団さえ本当に追い回すことができる4ストスポーツモデルが実現できるはずだ!と気合いを入れていきます。
FZ750同様シリンダー角度を45度も前傾させ、4連ダウンドラフトキャブレター(ミクニBDS26)が生み出す混合気をロスなく燃焼室へ届ける直線的な吸気ラインを実現するともに1気筒当たり4バルブを採用(設計初期には5バルブ導入も考えられたそうです!)。
直径5㎝足らず(48㎜)のピストン直上に吸気バルブ2つ(φ18×2)、排気バルブ2つ(φ15.5×2)を配置して、その中央、つまり燃焼室の頂上に点火プラグを設定……したいものの、当時はそんな狭い場所で使える細っそい(M10ロングリーチ型)プラグを国内メーカーは製造しておらず、フォルクスワーゲンのレース部品として供給されていたプラグを見つけてなんとか転用したのだとか。
ほかにも……というか、エンジン全体はもちろん、吸排気系もフレームも足まわりも、そして何と言っても斬新なデザインの細部に至るまで“前例”のない試みのオンパレード。
軽量化と耐久性を両立させたい部分には惜しみなく高コストな素材が使われ、パワーユニット単体ならびに車体全体の耐久テストも徹底的に行われたのだそうです。
その結果……エンジン重量は設計目標値の54㎏を2㎏も下回る52㎏を実現!
車体の乾燥重量は138㎏(装備重量156㎏)。最高出力は45馬力を1万4500回転で(レッドゾーンは1万6000回転から)、最大トルク2.5㎏mは1万1500回転で発生するというハイスペック大好きライダーたちを狂喜乱舞させる数値がズラリ。
なおかつ、いちいちカッコいいヤマハ面目躍如の“脱・レーサーレプリカ”なスタイリングも新鮮そのもの……ということで熱い注目を集めることになりました。
なおかつ1985年と言えば……そうです、世界GPを1983年限りで引退した“キング”ことケニー・ロバーツ選手が、人気&実力ともに日本一の平 忠彦選手とタッグを組んで鈴鹿8耐に参戦した伝説の年。
同年春、一挙手一投足が注目を集める“キング”がプロモーションの一環として袋井テストコースでFZ250フェーザーを走らせたことを報じるMC誌の記事を、高校3年生だった筆者は本に穴が開くほど読み返したものです(←勉強しろ)。
キングは「GPマシンに近いハンドリングが一番ファンタスティック!」と絶賛しており、前後16インチタイヤの操安性をうまく手懐け、安定感と俊敏性を高い次元で両立させたことが伺えました(残念ながら筆者はフェーザー未体験……)。
社内の不協和音を一掃した問答無用の排気音!
もしも……そのころスマホやYouTubeが存在していたとしたら、FZ250フェーザーの販売台数は倍以上になっていたかもしれません。
それほどまでに、特に最初期型が放つエキゾーストノートは絶品中の絶品でした。
タコメーターにはシレッと1万8000回転(レッドゾーンは1万6000回転~)まで数字が目盛られており、1万4000回転(同1万3500回転~)までだった2代目VT250Fとは次元が違うことを目視だけでも訴えかけます。
アイドリングから野太さを感じさせる迫力があり、軽くスロットルを操作するだけでヒュン! ヒュン! ヒュンッ!と音質を変えつつ針はメーター内で弾かれるように躍動。
満を持してカパッと右手を捻り上げると“ジェットサウンド”とも称された特徴的な音質をマフラーから響かせつつ、ズッキューッン~~!!とレッドゾーンまで一気呵成に吹け上がっていきます!!!!
この排気音には面白いエピソードがございまして、Vツインスポーツではなく秘密裏(?)に並列4気筒マシンの開発を進めてきた最終段階。
社内のプレゼンテーションで実際にエンジンをかけてレッドゾーン近辺までブン回し、響きわたる“天使の咆吼”を居並ぶ役員さんたちへ聞かせたところ「Vツイン! Vツイン……」という開発陣への要請はピタリと止まり、FZ250フェーザーの発売に一発オーケーが出たのだとか。
かくいう甘美かつド迫力な排気サウンドを動画で手軽に見聞きすることが当時できたなら、驚くべき革新的な存在であることが、より速く、より広範囲に流布されてVTの記録すら抜いたかもしれない……と夢想してしまうのです。
とはいっても、たった1年8ヵ月の販売期間ながら2万5000台ほどを売り切ったわけですから、十分に大成功作なのですけれどね。
8耐での活躍を背景に「4ストもヤマハ」イメージを定着!
1985年の鈴鹿8耐では残り30分まで「FZ750」ベースの「FZR750(OW74)」を駆るケニー&平組が他チームを圧倒して、“4ストでも強いヤマハ”をバイクファンへ強烈に印象づけました。
機を見るに敏な開発陣は「FZ250フェーザー」をベースに耐久レーサーイメージを色濃くデザインに反映させた「FZR250」を1986年12月にデビューさせ(イヤーモデルとしては1987年型となります)、さらなる大ヒットの上乗せを現実化……。
ハイパフォーマンスな250並列4気筒エンジンでも、レーサーレプリカルックなスタイリングでも、しっかりライバルメーカーに先んじて幅広い支持を獲得していったことは見事と言うしかありません。
好敵手の追い上げを受けたり、トレンドが移り変わったり、環境諸規制も厳しさを増すなどFZ&FZRシリーズを取り巻く状況は以降も激動を続けますが、ジェネシス思想に裏打ちされた「ヒューマン・レスポンス」というコンセプトは一切ブレることなく、ファイナル仕様となる1994年型「FZR250R(3LN7)」まで貫かれていきます。次回はその最終楽章について奏でて……いや語ってまいりましょう。
あ、というわけで入魂の極秘(?)開発でHY戦争からの起死回生を果たしヤマハ4ストの定評を確立したFZ&FZRシリーズは、今もって全く古く感じさせないスタイリッシュなデザインと、あの時代ならではの“熱い”パワーユニットが融合した稀代の名車群とも言えます。そんなレジェンドバイクもレッドバロンの良質な中古車なら安心して乗り続けることが可能。ぜひお近くの店舗でスタッフとご相談を!