1980年から始まった熱狂的なバイクブームの起点となったのがヤマハRZ250であることに異を唱える人はいないでしょう。自他共に認める“2ストのヤマハ”はしかし、4ストヒットモデルをどこより渇望するメーカーでもありました。折しも“4ストのホンダ”との「戦争」で一敗地に塗れた悔しさをバネに、奮起した若手開発陣が秘密裏に創出したのが異次元の4ストクオーターだったのです!

FZ250フェーザー イメージ

●1985年型「FZ250フェーザー」カタログより。ヘッドライトのすぐ上に入っている車名らしき文字の羅列は先行車のバックミラー経由で見ると、ちゃんと「PHAZER」と読める鏡像文字。も〜、そんなところまでがいちいちカッコいいヤマハなのです。クルマの世界では日産スカイラインの5代目、“ジャパン”ことC210型のスカイライン GTターボ……俗に「スカGターボ」と呼ばれた車両の鏡像文字が有名ですね〜

 

FZR250Rというフィナーレ【前編】はコチラ!

毎週のようにニューモデルが出てきた異常な事態

HY戦争……。

1970年代後半から国内バイクシェアNo.1(=世界一と同義)の座をかけたホンダとヤマハのタイマン勝負は、今でこそネットで検索をかければウィキペディアを始めとして、勃発の背景から推移、終焉に至るまでの経緯が山ほど出てきますが(興味があれば……いや、なくてもバイク好きなら是非一度はご確認のほどを)、筆者がアルバイトとしてMCことモーターサイクリスト編集部に潜り込んだ1990年ころはまだ話題として、な~んとなく触れるべからずな雰囲気が漂っておりました。

FZR250R

●「HY戦争……? ナニソレ? FZR250Rの話じゃないの??」という方も数多くいらっしゃることは重々承知しております。が、みんな大好きモトコンポもモトラもポップギャルもHY戦争がなければ生まれてこず、終戦後にヤマハが一気に持ち直した背景にもバトルの影響は色濃く、それがFZ&FZRシリーズ誕生にも関連……と、全てはつながっているのですね。清水一行氏の「首位戦争」(角川文庫)もオススメです

 

そりゃそうですわな、バイク雑誌にとって文字どおり一、二を争う重要クライアント様である2社が竜虎相打つ(泥沼な)販売競争を繰り広げ、結果的にホンダのアンビリーバブルな新車大攻勢を受けてヤマハが1983年、ついに白旗を上げた……というドラマチックに過ぎる展開が約40余年前、このニッポンで確かにあったのですヨ。

タイマン

●1982年にホンダは春から年末にかけて毎週1〜2モデル、トータルで45車種もの新製品を市場へ投入したとか。原付だけでなく“中免”向けも充実! 2スト&4スト、単気筒、V2、V3、V4、並列2気筒、4気筒、頂点としての6気筒に水平対向4気筒……多彩なエンジンを積む、ありとあらゆる車種が世へ放たれました

 

HY戦争当時、筆者はバイクに興味を持ち始めたばかりの小~中学生だったため、そんな企業間闘争が繰り広げられていたとは全く理解していなかったのですが、ソフィア・ローレンさんや八千草 薫さんのテレビCMが、お茶の間にやたらと流れだしたなぁと思っていたら、

1977PASSOL

ホンダの「ロードバル」が“ラッタッタァ〜”とソフィア・ローレンさんのCMで一世を風靡したら、1977年にヤマハは「パッソル」(写真)の宣伝に日本の大女優、八千草 薫さんを起用。スクーターではなく“ソフトバイク”と銘打って、ステップボードの上に足をそろえて乗れることを訴求するとコレが大ウケ! 原付バイク市場大爆発の口火を切ったモデルであり、それがHY戦争の発端になったともされているのです

 

近所に住むオバちゃんたちが先を争うようにソフトバイク(死語?)やスクーターに乗り始め、お兄ちゃんお姉ちゃんたちは颯爽とゼロハンスポーツにまたがり、父や母や祖父や祖母が(レジャー)バイクやカブにでも乗っていようものなら、その同級生は一躍クラスの人気者に成り上がる……という異様な世界が突然到来して驚きました。

ノーヘルのバイク

●「ペーパーテストのみで簡単に取れますよ!」とメーカーはこぞって原付(一種)免許取得を後押し。当時はノーヘルで乗ることができた気軽さもあって(ヘルメット着用義務化は1986年から)その人気は絶大なものとなっていきました

 

「ちょっと前はただの自転車屋さんだったよなぁ」という小さなお店の店内や軒下にも、ズラリとロードパルSやらパッソーラやらタクトやらベルーガやらジェンマなどが赤札を貼られてあふれかえっていたのです、筆者の故郷である山口の片田舎でさえ!

バナナのたたき売り

●もはやバナナのたたき売り自体が死語かもしれませんが……。それはともかく二束三文……いや、2台で3万円なんてまとめ売りもされていたくらい、HY戦争ピーク時(1982年ころ)の原付バイク不当廉売は度を越しておりましたな

大戦の終わった焼け野原に希望が芽生えた

そんな乱売合戦の末に敗れたヤマハは数百億円単位の赤字に陥り、指揮を執った社長や役員は退任や降格、従業員も約700人が合理化されるなど、会社の存続すら危ぶまれるほどの窮地に陥りました。

……のですけれど、かくいう大ピンチが“FZシリーズ”誕生の導火線ともなり、ヤマハ反転攻勢のキッカケにもなったのですから、本当にこの世というのは面白いものです。

さて、当時250㏄4ストスポーツの世界は絶対王者、ホンダ「VT250F」が君臨していた時代。

VT250F

●HY戦争の真っ最中、1982年6月10日から発売された初代ホンダ「VT250F(MC08)」。挟角90度の水冷4ストロークV型2気筒エンジンは11000回転で最高出力35馬力を発揮(最大トルクは2.2㎏m)し、当時の4スト250の概念を変えるハイパワーと乗りやすさも相まって大ヒットモデルへ(当時価格39万9000円)。MC誌の独自調査データによれば初年度は販売期間が7ヵ月弱にも関わらず3万台以上を登録したとされているのです。シンジラレナ〜イ! その後も快進撃は続き……

 

いやもうとにかく売れた売れた売れたったら売れました。

1982年6月に市場へ投入された初代「VT250F」はハイパワー化には不利とされる4ストロークでありながら、2ストの初代「RZ250」と同じ35馬力を発揮するV型2気筒エンジンを搭載してライダーたちのドギモを抜き、一躍大ヒット街道へ。

1984年2月には2スト勢が軒並み45馬力領域へ行ってしまったあとも、4ストとしては依然ナンバーワンの40馬力を発揮する2代目へと進化を果たし、人気はさらに加速していきました。

VT250F

●1984年2月から発売された2代目「VT250F(MC08……初代と同じ型式なので“MC08後期”とも呼ばれていますね)」。このデザインは筆者も本当に大好き! 改良されたVツインは40馬力/1万2500回転の高出力と2.3kgm/1万1000回転の最大トルクを発揮し、乾燥重量152㎏(装備重量167㎏)、シート高765㎜、当時価格44万9000円というあらゆる仕様が時代と合致してました。同年9月からはノンカウル版の「VT250Z」(42万9000円)も登場して超絶ベストセラーの座は揺るぎないものに!

 

なんとVT250シリーズは、登場以来34ヵ月で販売累計10万台を達成してしまいます。

これはもちろん空前絶後の大記録! 単純計算で1ヵ月当たり2941台強……それが1年続くと年間販売台数は3万5294台強!? 

まぁ、とにもかくにもドエライ数字です(偉業達成を記念した2タイプの特別仕様車も発売されるほど)。

VT250インテグラ

●はい、こちらがその特別仕様車その1「VT250Fインテグラ(ウイングスペシャルエディション)」(46万9000円)。フルカウルの採用だけでなく制動時の車体の沈み込みを緩和させるブレーキトルク応答型アンチダイブ機構(TRAC)・前輪アウトボードダブルディスクブレーキなど充実した装備も目を引きました

 

VT250F阪神!?

●特別仕様車その2は「VT250Fリミテッドエディション」(45万9000円)……公式的には「限定車」と味も素っ気もない名称ですが、通称として「タイガースカラー」とも呼ばれていました。折しも同年は阪神タイガースが日本一に輝いた年! あらゆる面で“持ってました”ね、VT。2台ともに1985年4月から5000台ずつ発売され、どちらも速攻でソールドアウトしたと聞いております

 

そんな“超”のつく快進撃を目の当たりにしていたヤマハの重役や役員たちは、「VTシリーズと同じ250㏄V型2気筒のハイパワーエンジンでVTキラーを作れ」と開発陣へ強く指示

しかし、開発の現場ではHY戦争の直後ということもあって若いエンジニアに好きにやらせようという機運が高まっており、中間管理職クラスの技術者は上層部から降ってくる「Vツイン! Vツイン! Vツイン!」という矢のような催促をうま~くはぐらかしつつ、若手の意欲的なチャレンジを擁護したとか

「他車のマネでは結局、勝てない」という世界GP500㏄クラス、スクエア4エンジンで快進撃を果たしたスズキRG500シリーズを横目に同じスクエア4を作り上げて搭載するも(1981年0W54、1982年0W60)苦汁を飲んだYZR500開発の反省がそこにはあったのかもしれません。

YZR500(0W54)

●ヤマハの世界GPレーサー「YZR500」は1973年から1980年まで2スト並列4気筒エンジンで戦ってきたのですが、“キング”ことケニー・ロバーツ選手を擁しても苦戦するようになり、1981年と1982年はスズキ同様のスクエア4とV型4気筒とを同時に新開発して試行錯誤……。1983年の0W70以降は「V4+デルタボックスフレーム」という基本路線からブレなくなり圧倒的な強さを取り戻したのです(写真は1981年の0W54)

 

Vツインではなくインライン4で250クラスの頂点へ!

「次世代のスポーツバイクとは、どのようなものか?」

熱意全開の若手エンジニアが激しく議論を戦わせた中からヤマハ独自の設計思想“ジェネシス”が生まれ、その具現化された姿として、まずは5バルブナナハンの「FZ750」と、“スーパークオーター”を標榜する「FZ250フェーザー」が1985年4月、華々しくデビューを果たしたのです。

FZ250フェーザー

●まさしくこちらが1985年型「FZ250フェーザー(1HX)」であります。いやもう全てがタマランですなぁ……(^^ゞ。前後16インチタイヤを採用しており全長/全幅/全高は1950㎜/690㎜/1060㎜と非常にコンパクトな車体でホイールベースは1350㎜。乾燥重量138㎏(装備重量156㎏)。シート高は750㎜、燃料タンク容量は12ℓ、50㎞/hの定地走行テストでの燃費は51.0㎞/ℓでした。高校3年生だった筆者は受験勉強そっちのけで、GENESISやPHAZERといった単語ばかり脳内へ蓄積していたものです

 

フェーザーが選択したエンジン形式は、4スト水冷並列4気筒DOHC4バルブというもの。

250㏄の並列4気筒エンジン自体はスズキが1983年に登場させた「GS250FW」で採用していたものの、そちらは1気筒当たり2バルブで最高出力は36馬力というスペック、かつ乾燥重量も157㎏(装備重量174㎏)と重めなものだったため、1ヵ月前に出た同社の「RG250Γ」のハイパフォーマンスぶりに大騒ぎだった当時では悲しいくらい話題にもならず……。

FZ250フェーザーカタログ

●1985年型「FZ250フェーザー」カタログより。シリンダー前傾45度・249㏄水冷並列4気筒DOHC4バルブエンジンのピストンは内径48.0㎜で、行程34.5㎜という超ショートストローク設定(ちなみにスズキGS250FWは内径44.0㎜×行程41㎜)。メインフレームの中に冷却水を通すというアイデアも採用され、小ぶりなラジエターでも十分な性能を確保。燃料タンクカバー内には7.1ℓもの大容量エアクリーナーを用意して高回転高出力化をサポートしていました。モロモロコミコミで当時価格は49万9000円

 

そんな経緯はさておき、ヤマハの若き開発者たちは250㏄並列4気筒エンジンの可能性を徹底追求することでVT250Fを凌駕することはもちろん、すでに軒並み45馬力を誇っていた2ストレーサーレプリカ軍団さえ本当に追い回すことができる4ストスポーツモデルが実現できるはずだ!と気合いを入れていきます。

FZ750同様シリンダー角度を45度も前傾させ、4連ダウンドラフトキャブレター(ミクニBDS26)が生み出す混合気をロスなく燃焼室へ届ける直線的な吸気ラインを実現するともに1気筒当たり4バルブを採用(設計初期には5バルブ導入も考えられたそうです!)。

直径5㎝足らず(48㎜)のピストン直上に吸気バルブ2つ(φ18×2)、排気バルブ2つ(φ15.5×2)を配置して、その中央、つまり燃焼室の頂上に点火プラグを設定……したいものの、当時はそんな狭い場所で使える細っそい(M10ロングリーチ型)プラグを国内メーカーは製造しておらず、フォルクスワーゲンのレース部品として供給されていたプラグを見つけてなんとか転用したのだとか。

フェーザー走り

●写真は1985年型「FZ250フェーザー」カタログより抜粋。イメージカラーとなったシルキーホワイト×レッドだけでなく、写真のシルキーホワイト×ブルーも美しかったなぁ……。「ハイブリッドシェイプ」と名付けられたカウルはフロントシールドからヘッドライト、フラッシャーランプ、タンクカバーまで一体化したデザインで、CdA値0.29以下という高いエアロダイナミクス効果を実現していました

 

ほかにも……というか、エンジン全体はもちろん、吸排気系もフレームも足まわりも、そして何と言っても斬新なデザインの細部に至るまで“前例”のない試みのオンパレード

軽量化と耐久性を両立させたい部分には惜しみなく高コストな素材が使われ、パワーユニット単体ならびに車体全体の耐久テストも徹底的に行われたのだそうです。

その結果……エンジン重量は設計目標値の54㎏を2㎏も下回る52㎏を実現! 

車体の乾燥重量は138㎏(装備重量156㎏)。最高出力は45馬力を1万4500回転で(レッドゾーンは1万6000回転から)、最大トルク2.5㎏mは1万1500回転で発生するというハイスペック大好きライダーたちを狂喜乱舞させる数値がズラリ。

なおかつ、いちいちカッコいいヤマハ面目躍如の“脱・レーサーレプリカ”なスタイリングも新鮮そのもの……ということで熱い注目を集めることになりました。

FZ250フェーザー カタログ

●1985年型「FZ250フェーザー」カタログより。速度&回転計内の意匠こそ同時期のRZシリーズなどと共通ながら、アルミプレート内に収めるところがいかにも“脱・レプリカ”的な仕上がり。筆者は1万8000回転まで数字が並ぶ市販車のタコメーターなんて見たことがなく、MC誌を眺めては“妄想サイクリスト”しておりました。近所のアニキが聞かせてくれた実車のエキゾーストノートは、今でも脳内に響き渡っております(←耳鳴りではない)

 

なおかつ1985年と言えば……そうです、世界GPを1983年限りで引退した“キング”ことケニー・ロバーツ選手が、人気&実力ともに日本一の平 忠彦選手とタッグを組んで鈴鹿8耐に参戦した伝説の年

同年春、一挙手一投足が注目を集める“キング”がプロモーションの一環として袋井テストコースでFZ250フェーザーを走らせたことを報じるMC誌の記事を、高校3年生だった筆者は本に穴が開くほど読み返したものです(←勉強しろ)。

キングは「GPマシンに近いハンドリングが一番ファンタスティック!」と絶賛しており、前後16インチタイヤの操安性をうまく手懐け、安定感と俊敏性を高い次元で両立させたことが伺えました(残念ながら筆者はフェーザー未体験……)。

社内の不協和音を一掃した問答無用の排気音!

もしも……そのころスマホやYouTubeが存在していたとしたら、FZ250フェーザーの販売台数は倍以上になっていたかもしれません。

それほどまでに、特に最初期型が放つエキゾーストノートは絶品中の絶品でした。

タコメーターにはシレッと1万8000回転(レッドゾーンは1万6000回転~)まで数字が目盛られており、1万4000回転(同1万3500回転~)までだった2代目VT250Fとは次元が違うことを目視だけでも訴えかけます。

アイドリングから野太さを感じさせる迫力があり、軽くスロットルを操作するだけでヒュン! ヒュン! ヒュンッ!と音質を変えつつ針はメーター内で弾かれるように躍動

満を持してカパッと右手を捻り上げると“ジェットサウンド”とも称された特徴的な音質をマフラーから響かせつつ、ズッキューッン~~!!とレッドゾーンまで一気呵成に吹け上がっていきます!!!! 

FZ250フェーザー YSP

●1985年4月にシルキーホワイト×レッド、同年6月にシルキーホワイト×ブルーが遅れて発売され、7月にブラックが追加。そして同年9月には写真の「FZ250フェーザー YSPリミテッド(1KG)」が登場とドトウの攻勢が行われます。そのYSP仕様は、リヤディスクブレーキ、アンダーカウル、ピレリタイヤ(MT45 ZETA)などを標準装備し(シートカウルはオプション扱い)、価格は53万5000円。YSP店での専売モデルながら台数限定ではありませんでした。街でも非常によく見かけた記憶がございます

 

この排気音には面白いエピソードがございまして、Vツインスポーツではなく秘密裏(?)に並列4気筒マシンの開発を進めてきた最終段階

社内のプレゼンテーションで実際にエンジンをかけてレッドゾーン近辺までブン回し、響きわたる“天使の咆吼”を居並ぶ役員さんたちへ聞かせたところ「Vツイン! Vツイン……」という開発陣への要請はピタリと止まり、FZ250フェーザーの発売に一発オーケーが出たのだとか。

かくいう甘美かつド迫力な排気サウンドを動画で手軽に見聞きすることが当時できたなら、驚くべき革新的な存在であることが、より速く、より広範囲に流布されてVTの記録すら抜いたかもしれない……と夢想してしまうのです。

1986_FZ250 LTD

●1986年5月には発売1周年を記念した「FZ250フェーザー 特別限定車(2EJ)」が52万5000円で発売されました。こちらは上で紹介したYSP仕様同様、リヤディスクブレーキとピレリタイヤを標準装備し、ファインシルバーの特別塗装が施されたもの。限定車ではありますが何台販売されたのかは不明なのです。なお、このモデル以降、新しい騒音規制に対応した吸排気系が採用されため排気音はおとなしめになりました……が、そこはそれ執念のヤマハ開発陣。スペック数値に変化はないものの、「吸排気効率をさらに煮詰め、中速域のレスポンスを向上させた〜」とカタログでも高らかに謳っております

1986年FZ250フェーザー

●1986年型「FZ250フェーザー」のカタログより。はい、というわけで同年7月には限定車ではないこのスタンダードモデル(1YL)も新しい吸排気系とリヤディスクを採用し、51万5000円で発売が開始されました……って、この半年後、同年12月には「FZR250」が登場いたしますので、フェーザーは本当に太く短く全速力で時代を駆け抜けたモデルだったのです

 

とはいっても、たった1年8ヵ月の販売期間ながら2万5000台ほどを売り切ったわけですから、十分に大成功作なのですけれどね。

8耐での活躍を背景に「4ストもヤマハ」イメージを定着!

1985年の鈴鹿8耐では残り30分まで「FZ750」ベースの「FZR750(OW74)」を駆るケニー&平組が他チームを圧倒して、“4ストでも強いヤマハ”をバイクファンへ強烈に印象づけました。

機を見るに敏な開発陣は「FZ250フェーザー」をベースに耐久レーサーイメージを色濃くデザインに反映させた「FZR250」を1986年12月にデビューさせ(イヤーモデルとしては1987年型となります)、さらなる大ヒットの上乗せを現実化……。

FZR250

●純白ボディに赤いブロックパターンの入ったシルキーホワイトは見飽きている(?)でしょうから、あえてシャイニーブラックの「FZR250(2KR)」をご紹介。いやもう何度だって叫びます「いちいちカッコいいヤマハ!」。 現在に続くトレンドとなっている前後17インチタイヤを採用し、全長/全幅/全高は2010㎜/680㎜/1120㎜、ホイールベースは1375㎜とフェーザーよりひとまわり大きく“映える”車体となりました。乾燥重量140㎏(装備重量159㎏)。シート高750㎜&燃料タンク容量12ℓ&50㎞/hの定地走行テストでの燃費51.0㎞/ℓはフェーザーと変わらず……で53万9000円。これで売れないワケがない! 当然のごとく2年間で3万台以上を売り上げるという大人気モデルへと成長していきました

 

ハイパフォーマンスな250並列4気筒エンジンでも、レーサーレプリカルックなスタイリングでも、しっかりライバルメーカーに先んじて幅広い支持を獲得していったことは見事と言うしかありません。

FZR250メカ部分

●1987年型「FZR250(2KR)」のカタログより。カウルを取り外したストリップモデルを見ると、本当に基本骨格はフェーザーベースであることが良く分かります。そこへF.A.I.(フレッシュエアインテーク)を組み込んでのエンジンフィーリング見直しを実施し、TZR250の知見を得た前後17インチホイールの足まわりを採用し、丸目2眼ヘッドライトや段付きシートなどレーサーレプリカの文法を組み込み……、まさにスキのない見事な転生っぷりでありました。以降、この文法から外れたレーサーレプリカモデルは例外なく不人気車になってしまうほど!?

 

好敵手の追い上げを受けたり、トレンドが移り変わったり、環境諸規制も厳しさを増すなどFZ&FZRシリーズを取り巻く状況は以降も激動を続けますが、ジェネシス思想に裏打ちされた「ヒューマン・レスポンス」というコンセプトは一切ブレることなく、ファイナル仕様となる1994年型「FZR250R(3LN7)」まで貫かれていきます。次回はその最終楽章について奏でて……いや語ってまいりましょう。

FZR250_TECH21

●俗にいう“TECH21カラー”は前回紹介したEXUP付きになってからだったんですね……というわけで1988年7月に発売された「FZR250」の限定車、エンデュランスライトブルー(3HX3)の写真です(ホントウニタマラナイ……)。同じく鈴鹿8耐へ参戦し、当時のレースファンに強い印象を与えた“ネスカフェアメリカーナ”仕様であるシルキーホワイト×ダイナスティブルー(3HX1)も同時期に発売され(55万9000円 ※STDも同じ)大人気を得ました。ともに限定車扱いですが、何台発売されたのかは不明です

 

あ、というわけで入魂の極秘(?)開発でHY戦争からの起死回生を果たしヤマハ4ストの定評を確立したFZ&FZRシリーズは、今もって全く古く感じさせないスタイリッシュなデザインと、あの時代ならではの“熱い”パワーユニットが融合した稀代の名車群とも言えます。そんなレジェンドバイクもレッドバロンの良質な中古車なら安心して乗り続けることが可能。ぜひお近くの店舗でスタッフとご相談を!

FZR250Rというフィナーレ【前編】はコチラ!

FZR250Rというフィナーレ【後編】はコチラ!

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