幼馴染みから始まるハーレー&ダビッドソンの物語

 こんにちは、青木タカオです。『ルイ・ヴィトン』や『シャネル』などがそうであるように、社名やブランド名が創業者の名前であることは珍しくありません。

『トヨタ』や『ベンツ』『ポルシェ』『フェラーリ』など国内外のクルマメーカーをはじめ、本田宗一郎の『ホンダ』、山葉寅楠(とらくす)の『ヤマハ』、鈴木道雄の『スズキ』、川崎正蔵(しょうぞう)の『カワサキ』、国内4大バイクメーカーもやはりそうです。


『ハーレーダビッドソン』もまた創業者の名に由来することは、広く知られています。1903年、アメリカ・ウィスコンシン州ミルウォーキーに、人々の移動手段を劇的に変えることを夢見ていた若者たちがいました。

 ウィリアム・S・ハーレーとアーサー・ダビッドソン、そしてアーサーの兄であるウォルター・ダビッドソンによって、その歴史は始まります。

 幼馴染みのビル(ウィリアムのニックネーム)とダビッドソン家の三男であるアーサーが、当時の最先端を行くモーターサイクルを独学でつくりはじめ、アーサーのお兄ちゃんであるウォルターがふたりを手伝って第1号機が完成します。

家族ぐるみで事業スタート!

シリアルナンバーワンのハーレーダビッドソン第1号車は、H-Dミュージアムに展示されている。画像提供 ハーレーダビッドソン

▲シリアルナンバーワンのハーレーダビッドソン第1号車は、H-Dミュージアムに展示されている。

 120年以上も前のことですが、想像するとなんとなくイメージがわいてくるのはボクだけでしょうか。アーサーと同じ三男であるボクは、小学生の頃、友達とプラモデルやラジコンを作り出しますが、なんでも背伸びして対象年齢以上のモノに手を出しがちな末っ子気質もあって、途中でどうやって組み立てればいいのか分からなくなりがちでした。

 そこでまず助けてくれるのが、1つ上のお兄ちゃんです。ボクのガンプラやミリタリー模型とは次元がまったく異なりますが、3人は見事にオートバイをつくりあげたのです!

 もちろん彼らは小学生ではなく、ミルウォーキーにあるバース工業で働く若者で、製図工のビル(ウィリアム・S・ハーレー)が設計し、鋳型製作工のアーサーがパーツを製作。ウォルターが組み上げました。

 ド・ディオン式の単気筒エンジンを搭載したエンジン付き自転車が出来上がりましたが、その基礎知識はドイツ人移住者の同僚が教えてくれたものでした。

 もちろん、超優秀なエンジニアであったことは言うまでもなく、ウィリアム・S・ハーレーはウィスコンシン大学マディソン校出身の機械工学者です。

 その完成度が高いことから、友人らから「私にも作ってくれ」と、お願いされます。ハーレーとダビッドソン兄弟の仕事が始まったのです!!

成長していく会社

 翌1904年に、同様の仕様で2台を製作して販売。燃料タンクに入れたロゴは「Harley-Davidson Motor Company」でした。勤め人をしつつ、平日の夜と週末にオートバイを製作。1905年は8台を完成させます。

米国ミルウォーキーのH-Dミュージアムに再現されているハーレーダビッドソン最初のファクトリー。撮影:青木タカオ

▲米国ミルウォーキーのH-Dミュージアムに再現されているハーレーダビッドソン最初のファクトリー。撮影:青木タカオ

 当初はダビッドソン家の地下で作業していましたが、専用の小屋をお父さんが建ててくれました。3×4.6メートルの小さな納屋のドアにも「Harley-Davidson Motor Co.」と書かれています。

 感情移入して、勝手にまた想像を膨らませますが、“小さいながらも俺たちの城”みたいな誇らしい気持ちだったのでしょうか。なんだか、夢やロマンを感じてなりません。

 1970年代まで小屋は当時のままの姿で本社の敷地内に保存され、現在もミルウォーキーにあるハーレーダビッドソンミュージアムにて再現されています。

 製品が評判となり、1906年には50台を生産。後にハーレーダビッドソンの本社となる場所に建てられた12×18メートルの工場で組み立てられました。

米国ミルウォーキーのH-Dミュージアム入口で見ることができるハーレーダビッドソン創業者たち。撮影:青木タカオ

▲米国ミルウォーキーのH-Dミュージアム入口で見ることができるハーレーダビッドソン創業者たち。撮影:青木タカオ

 長男のウィリアム・A・ダビッドソンも加わって、1907年には正式な会社を設立します。一番上のお兄ちゃんもついに加わったわけですね。

 社長は次男のウォルター・ダビッドソン、技術部長にウィリアム・S・ハーレー、アーサー・ダビッドソン(三男)が総務部長と営業部長を兼任、ウィリアム・A・ダビッドソン(長男)が労務部長となり、従業員も増えていきます。 2階建ての新工場はレンガ造りの外観。1907年の生産台数は150台まで増加しました。

 1907年2月のシカゴ自動車ショーに、45度V型2気筒エンジンを搭載した試作車を展示。また、ウォルターはハーレーダビッドソンの名を広めるため、当時盛んだったボードトラックレースに出場し、高性能であることを命がけでアピールしていきます。

米国ウィスコンシン州ミルウォーキーのハーレーダビッドソン本社。撮影:青木タカオ

▲米国ウィスコンシン州ミルウォーキーのハーレーダビッドソン本社。撮影:青木タカオ

伝説のアイコンへ

 世界恐慌や世界大戦を越えたハーレーダビッドソン。1963年には2代目社長ウィリアム・H・ダビッドソンの息子、ウィリアム・G・ダビッドソンが入社します。

WITH HARLEY(ウィズハーレー)Vol.21(9月24日発売/内外出版社)

▲WITH HARLEY(ウィズハーレー)Vol.21(9月24日発売/内外出版社)

 後に大ヒットモデルとなるローライダーを手掛けるなど、ブランドの歴史を語るうえで欠かすことのできない人物です。「ウイリーG」とニックネームで呼ばれ、熱狂的とも言えるファンを持つウィリアム・G・ダビッドソンのストーリーを今回、ボクが編集長を務める『WITH HARLEY(ウィズハーレー)Vol.21』(9月24日発売/内外出版社)では特集しました。

▲ミルウォーキーの創業記念イベント(2018年/115th.Anniversary)でステージに立つダビッドソンファミリー。左から3番目がウィリーG・ダビッドソン。画像提供 ハーレーダビッドソン

 ウイリーG.が入社すると、やがて会社はアメリカの大手機械メーカーAMF(アメリカン・マシン・ファンダリー)と業務提携を結び、傘下へ入ります。

 そんななか、ウイリーG.は後世に語り継がれる不屈の名車やブランドロゴなどを数多く生み出します。『FXスーパーグライド』や『FXSローライダー』そして『XLCRカフェレーサー』といった代表作にまつわるエピソードや、会社を買い戻し、当時のアメリカ合衆国大統領にまで称えられるサクセスストーリーを満載にした特集号となりました。

 というわけで、ウィズハーレーの発売される3ヶ月に1度の恒例となった雑誌の発売告知で終わらせていただきます。ぜひ、ウィズハーレーを手に取る前の予備知識として、今回のコラムを読んでいただければと思い、執筆させていただきました。最後まで読んでいただき、ありがとうございます!!

 

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