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ホンダから本田宗一郎に続く殿堂入り
こんにちは、バイクライターの青木タカオです。前回は栄えある米国自動車殿堂に、本田宗一郎氏とともにタッグを組みホンダを躍進させたことで知られる藤澤武夫氏が選出されたことについて書きました。
今回はその後編です。米国自動車殿堂は1939年、世界の自動車産業の発展に功績のあった人を称え、自動車社会のさらなる発展に寄与することを目的に設立されたもの。日本人で初めて選ばれたのは本田宗一郎氏(本田技研工業・創業者)で、1989年に殿堂入りを果たしました。それから34年が経ちましたが、ともに二人三脚でホンダを率いたる藤澤氏が、殿堂入りを果たしたのです!
7月20日、米国ミシガン州デトロイト市にて開かれた授賞式典に登壇したホンダ取締役会長・倉石誠司氏のスピーチ概要は以下の通りです。
1959年にホンダがアメリカン・ホンダモーターを設立した際、藤澤武夫は独立した販売ネットワークを構築することにこだわりました。当時、ほとんどの日本企業は代理店を通じて製品を販売していました。
しかし藤澤武夫は、お客様と独自の関係を築きたいと考えていました。これが私たちホンダの成功の鍵でした。米国でビジネスを始めると決めて以来、ホンダは顧客、ビジネスパートナー、ホンダの従業員、そして彼らが住み、働いている多くのコミュニティーと特別な関係を築いてきました。ホンダを受け入れてくださった米国の皆様に感謝いたします。
藤澤武夫は自動車大国である米国で成功することを夢見ていました。彼は今回の米国自動車殿堂入りをとても喜んでいると思います。そして私たちホンダ全てのメンバーが大変光栄に思っています。
藤澤武夫の精神とビジョンはホンダを導き続けています。米国でのホンダのビジネスは『Honda50』から始まりましたが、彼のビジョンにより、その活動はHondaJetを含むさまざまな新たなモビリティへと続いています。
アジアではなくアメリカへ
前回ここで紹介した通り、『カブF型』(1952年)のヒットなどにより、創業後わずか7年あまりで国内2輪業界におけるトップメーカーとしての基盤を固めつつあったホンダ。1959年には専務取締役だった藤澤武夫氏が、ホンダ初の海外現地法人として「American Honda Motor(アメリカン・ホンダ・モーター)」の設立を決断しました。いよいよ、ホンダの海外進出です!!
大衆車の原点ともいわれるフォード社の『モデルT』が1908年に生産されて以来、1927年までに約1500万台が製造され、自動車が馬にかわって社会と大衆に普及するモータリゼーションが早くから進んでいたアメリカ。
人々の移動手段といえば、四輪自動車がすでにメインで、ホンダが進出した当時、二輪市場の規模はおよそ6万台程度でしかありませんでした。そのほとんどが排気量500cc以上の大型モデルであり、ハーレーダビッドソンやインディアンモーターサイクル、あるいは英国をはじめとした欧州車です。
一方、ホンダの製品ラインナップは小排気量モデルだけ。社内からは、ヨーロッパからの小型バイクがすでに使われていたアジアへの展開が賢明だろうと提案されていましたが、藤澤氏は「自動車の国」であるアメリカを目標に定めたのでした。
当時のホンダにとっては、とても難しい目標でしたが、藤澤氏はこう考えます。
「世界経済の中心であるアメリカで成功するということは、世界で成功するということ。米国でヒットしないような商品は、世界に通用するような国際商品にはなり得ない」
また、社内では「商社を使うべき」という意見もありましたが、ホンダ全額出資の販売会社を設立することに。自力で販売網を築くことを選んだのでした。
低価格と手軽さでHonda50が人気に
当時、ホンダの主力モデルは『ドリーム』(250cc/350cc)や『ベンリイ』(125cc)で、日本で発売されたばかりの『スーパーカブ』(アメリカ名=Honda 50)もありましたが、「戦争に負けた日本で、いい製品ができるわけがない」というのが、現地の人たちの反応でした。
そんななか、小さくて取り回しが良く、4ストロークエンジンの採用により音も静かな『Honda50』が好評を得ます。スカートもめくれにくく、女性でも手軽に乗れます。
250ドルというリーズナブルな価格で、大学生も小遣いをためたり、ローンを組んで買うことができました。若い彼らが、移動用の足として注目したのです。
アメリカを代表する雑誌「LIFE(ライフ)」に広告を掲載し、モーターサイクルに対するイメージアップを図りました。というのも、アメリカにおける移動手段は先述した通り四輪自動車が一般的で、オートバイはレジャー愛好家やレースマニアなど、一部の限られた人たちの乗り物だったからです。
市場のほとんどを大型モデルが占め、オートバイにはアウト・ロー(無法者)たちの遊び道具といった悪いイメージがつきまとっていました。
誰もが気軽に乗れるよう、明るく華やかな雰囲気の色を車体に用いて、宣伝も「NIFTY・THRIFTY・HONDA FIFTY(おしゃれで経済的、粋な乗り物・Honda 50)」といったユニークなキャッチコピーとしました。
悪しきイメージを払拭
『Honda 50』のセールスは好調で、と同時に「ユーザーへのアフターサービスをきちっとやろう」と、航空便で日本から部品を取り寄せ、販売店に送りました。
また、「オートバイの販売店は油にまみれた薄汚ない所」という悪しきイメージの払拭に努め、アメリカンホンダの営業スタッフは全員、背広にネクタイを締め、サービス・メカニックたちも真っ白の作業着を着用しました。常に清潔感のある服装と、礼儀正しい態度で顧客に接することを心掛けたのです。
1962年12月には、アメリカンホンダの年間総販売台数は4万台を突破。契約販売店は全米ナンバー1となる750店近くにまで増えたのでした。
全米が注目する一大文化イベント「アカデミー賞」授賞式にスポンサー参加するなど、バイクメーカーでは前代未聞の広告戦略にも打って出ます。思い切った宣伝活動は、前回ココで紹介した『カブF型』のときと同じ。日本で成功したことを、世界でもやってのけて、ホンダはさらに羽ばたいていくのです!
ハンターカブやモンキーなども誕生
1964年には、ブロックタイヤや登坂力を増す大径ドリブンスプロケット、アップマフラーなどを装備する『HONDA 90TRAIL CT200』をリリース。広大な原野や山野を手軽に走れるオートバイとして人気を博しました。
じつはボク、ホンダコレクションホールが所蔵する『HONDA 90TRAIL CT200』(1964年、北米仕様)に乗らせていただいたことがあります。たいへん貴重な走行シーン、動画にも収めていますので、興味のある人はぜひご覧ください。最後に貼り付けておきましょう。
また、子どもでも手軽に乗って楽しめるオートバイとしてヒットしたのは、1968年に発売した『HONDA MINI TRAIL』(ミニトレール=モンキーやダックスの輸出仕様車)でした。
アメリカンホンダは1970年に、全米のYMCA(アメリカ・キリスト教青年会)各支部に合計1万台(約9億円相当)のミニトレールを寄贈。青少年に安全で正しい乗り方と、楽しい使い方を教える活動を通じ、健全育成を図りたいと考えたのです。
次世代へ向け、ふたりのパートナーシップが終わる
逆風が強かったアメリカのモーターサイクル業界でも成功したホンダ。藤澤氏の決断によって設立されたアメリカンホンダは、川島喜八郎氏が支配人として任されました。
藤澤氏は早い段階から、後継者育成の必要性を感じており、常々「次の世代に経営の基本をきちんと残すことが大事な仕事」と言っていたそうです。
1973年3月、藤澤氏が「今期限りで辞める」と本田宗一郎氏に伝えると、「おれは藤澤武夫あっての社長。副社長がやめるなら、おれも一緒に辞める」と、創業期からの二人三脚が終わったのでした。
ホンダのモノづくりにかける想いであったり、世界最高峰カテゴリーでのレース活動などは、ボクたちファンをいつの時代もワクワクさせてくれますが、こうした創業者たちの熱きストーリーもまた胸に響くものばかりです。
今回、本田宗一郎氏に続いて、コンビを組んだ藤澤武夫氏も米国自動車殿堂に選出。海外でもホンダ創業者たちの偉業が認められ、また後世へと語り継がれていくことでしょう。
というわけで、『HONDA 90TRAIL CT200』(1964年)の走行シーンを見ていただいて、今回はおしまいにいたします。最後までお付き合いくださいまして、誠にありがとうございました。