日本のサムライが世界でまた認められた

 みなさんこんにちは、バイクライターの青木タカオです。メジャーリーグベースボールの大谷翔平選手をはじめ、世界で活躍するサムライたちはたくさんいらっしゃいます。

 阪神タイガースファンのボクとしては、藤浪晋太郎選手の動向も毎日欠かさずチェックしていますが、朗報がひとつアメリカから入ってきました。日本の高度成長期とともに、ホンダを創業者・本田宗一郎氏ととともに世界へと躍進させたサムライが海外で認められ、賞賛されたのです。

ホンダ元最高顧問・藤澤武夫氏の米国自動車殿堂入り授賞式。7月20日(米国現地時間)、米国ミシガン州デトロイト市。

▲ホンダ元最高顧問・藤澤武夫氏の米国自動車殿堂入り授賞式。7月20日(米国現地時間)、米国ミシガン州デトロイト市。(画像:ホンダモーターサイクルジャパン

 戦後、日本が世界に誇るオートバイ産業を牽引したホンダ。創業者のひとりであり、最高顧問を務めた藤澤武夫氏がアメリカの自動車殿堂に選出されました!

式典に登壇した本田技研工業取締役会長・倉石誠司氏。

▲式典に登壇した本田技研工業取締役会長・倉石誠司氏。(画像:ホンダモーターサイクルジャパン)

 その授賞式典が7月20日(米国現地時間)、米国ミシガン州デトロイト市にて開催され、本田技研工業取締役会長である倉石誠司氏が登壇しました。

 自動車産業に貢献した人々の功績を称える米国自動車殿堂。日本人で初めて選ばれたのもまたホンダ創業者である本田宗一郎氏で、トヨタ社長の豊田英二氏や米国日産の初代社長である片山豊氏らも殿堂入りを果たしています。

本田宗一郎氏との強力タッグ

 ホンダ創業者である本田宗一郎氏とともに、黎明期の本田技研工業を率いたことで知られている藤澤氏。本田氏がつくって、藤澤氏が売るという役割分担で、ホンダを躍進させました。

ホンダ ドリームD型/1949年。HONDA DREAM D

▲ホンダ ドリームD型/1949年。自社開発第1号の本格バイクで、排気量98ccの空冷2ストローク・ロータリーバルブ単気筒エンジンは、最高出力3PS/5000rpmを発揮した。(画像:ホンダモーターサイクルジャパン)

 ふたりが初めて対面したのは、静岡県浜松市で本田技研工業株式会社が設立した1年後、1949年の夏。『ドリームD型』を発売した直後のことだったそうです。

鉄鋼材の販売店「三ツ輪商会」でセールスマンとして働いていた藤澤武夫氏(写真右)は、本田宗一郎氏と出会うとすぐに意気投合。売る人、つくる人として、それぞれ役割分担した強力タッグが生まれ、ホンダを世界へ躍進させていく。

▲鉄鋼材の販売店でセールスマンとして働き、経営も任されていた藤澤武夫氏(写真右)は、本田宗一郎氏と出会うとすぐに意気投合。売る人、つくる人として、それぞれ役割分担した強力タッグが生まれ、ホンダを世界へ躍進させていくこととなる。(PHOTO:American Honda Motor)

 鉄鋼材のセールスマンとして、売り上げ成績でトップだった藤澤氏。ふたりが会うと、すぐに意気投合したといいます。本田氏42歳、藤澤氏38歳。適材適所の極みであり、どちらかも欠くことのできない2つの強烈なパーソナリティーが結び付きます。「つくる人=本田宗一郎、売る人=藤澤武夫」というコンビが誕生したのでした。

大衆向けであることがヒットのカギ

 戦後落ち込んだ日本経済でしたが、朝鮮戦争の特需ブームで息を吹き返します。1950年9月、工場がまず東京進出を果たすと、1952年4月には浜松から本社も中央区槇町へ移転。このとき本田氏は、藤澤氏が待望していた大衆向け商品をつくりあげました。

「白いタンク、赤いエンジン」の愛称で親しまれたホンダ カブF型/1952年。自転車の後輪に取り付ける補助エンジンで、ホンダのオートバイ躍進の基盤を築いた。

▲「白いタンク、赤いエンジン」の愛称で親しまれたホンダ カブF型/1952年。自転車の後輪に取り付ける補助エンジンで、ホンダのオートバイ躍進の基盤を築いた。(撮影:青木タカオ

 自転車用補助エンジンの最新作『カブF型』です。エンジンは軽量小型の2ストローク50cc。白いタンクに赤いエンジンのデザインで、見るからにスマートで可愛らしく、誰にでも親しめる雰囲気を持っていました。

 ここで後世に語り継がれる藤澤氏の新戦略が生まれます。目の前にあった未開拓の流通網、それは日本中どこにでもあった自転車屋さんでした。全国5万軒へ、宛名を含めすべて手書きの手紙(ダイレクトメール)を送り、販売網を自前で築き上げるのです。

 宣伝活動もダイナミックとしか言いようがありません。当時、人気絶頂だった日劇ダンシングチームのダンサー50人が『カブF型』に乗り、東京・銀座の大通りを華やかにパレードしました。「女性も乗れる」とマスコミが報道し、『カブF型』の名は全国に広まります。

ダンボールに収め全国の自転車店へ発送した『カブF型』のキット一式。(撮影:青木タカオ)

▲ダンボールに収め全国の自転車店へ発送した『カブF型』のキット一式。(撮影:青木タカオ)

 33×33×60cmのダンボール箱に、エンジン一式と燃料タンク、関係書類などを入れて自転車店へ発送し、直販。委託販売が常識だった2輪車業界で前金を払ってもらうというのも画期的でしたし、藤澤氏は月賦販売、つまりローンのアイデアも実現させました。

『カブF型』の価格は2万5000円で、当時の平均的サラリーマンの初任給3カ月分以上。誰でも乗れて、身近にある自転車屋さんで月賦払いで買える。『カブF型』はたちまち大人気に。大量生産され、およそ1万5000軒の自転車店で販売されます。

ホンダコレクションホール所蔵の『カブF型』(1952年)に乗る青木タカオ。(画像:ホンダモーターサイクルジャパン)

▲ホンダコレクションホール所蔵の『カブF型』(1952年)に乗る青木タカオ。(画像:ホンダモーターサイクルジャパン)

 じつはボク、ホンダコレクションホール所蔵の『カブF型』に乗らせていただくという、たいへん貴重な経験をしております。その時の模様を記録した動画を最後に貼り付けておきますので、ぜひご覧ください!!

ホンダがいよいよ世界へ!

二人三脚でホンダを躍進させた藤澤武夫氏(写真右)と本田宗一郎氏。(PHOTO:American Honda Motor)

▲本田宗一郎氏と藤澤武夫氏(写真右)ホンダを躍進させた強力なコンビでした。(PHOTO:American Honda Motor)

 本田氏が研究開発や生産といった技術領域に集中する一方、藤澤氏は営業や財務、マーケティングといった事業領域を一手に担い、本田氏と二人三脚でホンダを率いました。その後、2人のパートナーシップは、1973年3月に2人が揃って引退するまで、約25年間にわたって続きます。

 本田氏が日本人として初めて米国自動車殿堂入りを果たしたのは、藤澤氏が亡くなった翌年の1989年のことでした。そして2023年、本田氏に続いて藤澤氏も米国自動車殿堂に選出され、ホンダの名コンビが再び脚光を浴びることになったのです。

 さて、気がつけばまた長くなりましたので、今回はここまで。次回はホンダが「世界一でこそ、日本一」と海外進出を果たすため、1959年に「アメリカン・ホンダモーター」を設立していくハナシをしようと思います。

 自動車大国である米国で成功するため、藤澤氏はアメリカでも独立した販売ネットワークを構築することにこだわりました。大型バイクがメインの市場の中で、小さくて取り回しが良い車体に4ストロークエンジンを積む『Honda50』(スーパーカブの当時の米国での販売名)が、若者たちに注目されていきます。

■藤澤武夫氏の略歴
1910年11月10日東京都生まれ
1949年 10月:本田技研工業株式会社 常務取締役として入社
1952年 4月:同社 専務取締役
1964年 4月:同社 取締役副社長
1973年 10月:同社 取締役副社長を退任、取締役最高顧問 就任
1983年 10月:同社 取締役を退任、最高顧問
1988年12月30日:死去(享年78歳)

動画はコチラ

 最後にボクが『カブF型』(1952年)に乗らせていただいた時の様子を、ぜひ動画でご覧ください。今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。次回もどうぞお楽しみに〜!

 

後編はこちら

アメリカ進出を決めた! 本田宗一郎氏を経営面で支えた藤澤武夫氏が米国自動車殿堂入り〜後編

 

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