1999年に販売が終了されてから、すでに20年以上が経過している2ストロークスポーツモデル、ホンダNSR250R。すでに様々な記事や特集はネットやリアル出版物であふれかえっておりますが、ここでは発売されていた期間に同時並行して青春を過ごせたいちライダー(後に二輪雑誌編集部員)という立場から、奇跡の軌跡をたどっていきたいと思います。

2ストはスズキかヤマハ! ホンダなんて全然ダメだよ」

諸説はありますが、1980年のヤマハRZ250発売を皮切りに爆発的な盛り上がりを見せ始めた空前のバイクブーム。

1980年式ヤマハRZ250

●1980年8月に発売が開始されたRZ250。同社の市販レーサーであるTZ250と同じボア・ストローク(54㎜×54㎜)を持つ水冷2ストローク並列2気筒エンジンを流麗なスタイリングの車体に搭載。最高出力35馬力/最大トルク3.0㎏m/装備重量157㎏というスペックはライバルを圧倒するものでした。当時価格35万4000円

 

山口県の瀬戸内地方で、食が細いクラスメイトの分まで給食と牛乳を鯨飲する中学生だった自分にも、バイクブームの大波はやってきました。

気が付けば勉強そっちのけで毎月「モーターサイクリスト」を読みふけるようになり、高校生になってからは「オートバイ」「ヤングマシン」「モト・ライダー」「ミスターバイク」などの各誌を支持する悪友たちと終わることのないバイクに関する「口(くち)プロレス(←要は舌戦)」ばかりするように…。(“3ナイで免許が取れないため余計に熱く……)。

そんななか、夕焼けに染まる教室で小学校時代からオートバイ誌を読んでいたという耳学問では先輩格のYくんが言い放ったのが、

「2ストはスズキかヤマハ! ホンダなんて全然ダメだよ」

そうなのです。1982年に「4ストで2ストに勝つ!」と鳴り物入りで登場し、大ヒットを放ったホンダVT250Fの登場を受けてか、スズキとヤマハが大奮起していました。

ホンダVT250F

●1982年5月に発売されたVT250F。驚きの4スト世界GPマシン、NR500のイメージをうまく落とし込んだ挟角90度の水冷4ストロークV型2気筒エンジンは11000回転でカタログ数値上はRZ250と並ぶ最高出力35馬力を発揮(最大トルクは2.2㎏m)。今見てもほれぼれするデザインのボディは装備重量162㎏に抑えられており、乗りやすさも相まって大ヒットモデルとなっていきます。当時価格39万9000円

 

1983年、RZ250YPVSを搭載したRZ250Rへと進化し、スズキに至っては市販車初のアルミフレームを引っさげてRG250Γをリリースしたのです。

ヤマハRZ250R

●1983年2月1日、革命的排気デバイスYPVSを採用してさらなるポテンシャルアップを図ったRZ250Rが発売開始。最高出力は43馬力となり(最大トルク3.4㎏m)、装備重量は162㎏で当時価格39万9000円。個性的なデザインのビキニカウルは「フグカウル」と揶揄されもしましたね(笑)。ちょうど一年後にはエンジンに改良を加えて45馬力化し、ハーフカウルもまとうなど数々の改良が重ねられた「RZ250RR」も43万9000円でリリース!

 

スズキRG250Γ

●1983年2月20日、ニッポンに衝撃が走りました。目新しかったハーフカウルも凜々しいスズキRG250Γが堂々たるデビューを果たしたのです。新設計の水冷パラツインは最高出力45馬力/最大トルク3.8㎏mのパフォーマンスを発揮。そして何と言っても市販量産車初のアルミフレームの採用により、装備重量は146㎏(乾燥重量131㎏)! 当時価格は46万円とライバルよりしっかり高値だったものの、1年間で約3万台を売り上げる大ヒット作となりました。こちらも翌84年にはヘッドライトがスラントした通称「2型」へとマイチェン。同時に黄色い“ハーべーΓ”が出たことでも知られています

 

2ストでは新参者だったホンダの手痛い失敗体験

ホンダも世界GPでフレディ・スペンサー選手の手により大活躍していた2ストレーサー、NS500のイメージを反映させた2ストモデル「MVX250F」を投入しますが……これがもうコテンパン。

MVX250Fカタログ

●奇しくもRZ250Rと同じ1983年2月1日に当時価格42万8000円で登場したホンダMVX250F。NR500からバトンを引き継ぎ、2ストGPマシンとして活躍していたNS500をイメージさせる水冷2ストロークV型3気筒エンジン(カタログにもドドーンと!)は最高出力40馬力、最大トルク3.2㎏mを発生。装備重量が155㎏だったこともあり、パワーウエイトレシオの点でもライバルに遅れをとりました

 

MVX250F

●VT250Fに引き続き写真のMVX250Fでもヒットを放った暁には、兄貴分のMVX400F(外観はほぼ同じ)がリリースされる予定だった……というのは、すでによく知られているエピソード。急遽お蔵入りとなった2ストV3エンジンは徹底的な改良が施され、1985年5月に発売された「NS400R」(排気量387㏄/最高出力59馬力/最大トルク5.1㎏m/装備重量183㎏/当時価格62万9000円)の心臓としてめでたく日の目を見たのです

 

何よりもカタログスペックを最重要視する空気が満ちていたバイクブームのなか、初代RZ250の(初代VT250Fも同じ)35馬力を上回る40馬力を2ストV3気筒という凝った構成のエンジンは絞り出してきたものの、同日に登場したRZ250R43馬力、20日後に登場したRG250Γに至っては45馬力であることを高らかに謳い、痛快な2ストスポーツを欲しがるヤングユーザーの視線はほぼその2車へ集中……

ぶっちゃけVT250Fと見分けがつかないスタイリング(実際はタンク、シート、サイドカバーなどはしっかり専用部品だったものの、特徴的なビキニカウルやフロントタイヤまわりなどがVTそのままだったため印象が悪い)でも評価を下げてしまったMVXは、残念ながら失敗作の烙印を押されてしまいます。

後日、口(くち)プロレスの同志だった0くんが進学した大阪で購入したMVX250Fをちょっとだけ借りて乗ってみたのですが、キック一発ベベベベベッと目を覚まし、高回転域までベベべべ〜〜ッとスムーズに回転が上昇していくV3エンジンは、それなりに面白いフィーリングでした。

MVX250Fカタログ

●カタログの表紙には我らがスーパーヒーロー、フレディ・スペンサー選手の勇姿が……。MVX250Fが苦戦した1983年、彼はヤマハを駆るケニー・ロバーツ選手との死闘を制してV3エンジンのNS500とともに世界グランプリ500㏄クラスのチャンピオンへと輝きます

 

とはいえ多くの人が2ストに求める問答無用で二次曲線的に吹け上がる過激さはやはり希薄、それでいてオイル混じりの白煙はとても濃厚……、という記憶だけが鮮烈に残っています。

時間を金で買って超絶スピード開発された「NS250R/F

そんなMVXが出た1983年という年は、まさにホンダとヤマハがバイク市場のトップシェアをかけて激しい販売戦争を繰り広げた“HY戦争が終結した年。

ソフトバイク、スクーター、ビジネスモデル、小排気量から大排気量までの4ストモデルでは、圧倒的な物量作戦でほぼ全ジャンルでの勝利をモノにしたホンダでしたが、2スト250スポーツの領域ではRZRZ-R、そしてRG-Γに返り討ちを食らった形になりました。

この劣勢を受けて市販化まで秒読み段階だった兄弟車「MVX400F」の投入計画は立ち消えとなるなど、ホンダのプライドはズタズタに。

大幅な先行を許したライバルたちに対抗するべく常識では考えられないスピードですべてが新規開発され、翌1984年5月に登場したのがアルミフレームにフルカウルを装備した「NS250R」と鉄フレームのネイキッド仕様「NS250F」でした。

NS250Rポスター

●当時のバイクショップにデカデカと張り出されていたNSシリーズのポスター。すべて手作業で描かれた(!)という透視図が最新のメカニズムを引っさげて生まれたことを誇示しています。レーサーNS500と同じNS(ニッケル/シリコン・カーバイト)メッキをシリンダーに施したり、ATACと呼ばれる排気デバイスを採用したV2エンジンは、ライバルと横並びの45馬力を発揮(最大トルクは3.6㎏m)。装備重量は161㎏でした。なお、翌年に出たロスマンズ仕様は美しかったなぁ……

 

ホンダのレース部門であるHRC(ホンダ・レーシング・カンパニー)と情報を交換し、市販レーサーRS250Rと連携しつつ新規開発された2ストV2気筒エンジンはライバルと同じ45馬力を発揮し、スタイリングもシャシーも当時の最新トレンドを結集。

なおかつ当時価格で539000円だったより、11万円もお安い(429000円)“F”を用意するなど水も漏らさぬ販売戦略を実現してくるあたり、ホンダの恐るべき底力を感じさせるものでした。

NS250F

●元祖ネイキッドスポーツと呼んでもいい(ヤマハFZ400Nという説もあり)のではないか?と個人的には思っているNS250F。Rのアルミフレームと同じ形状に仕上げられた鉄フレームに、別デザインの鉄製強化スイングアーム。RがNSコムスターホイールなのに、こちらはブーメランコムスター。もっと言ってしまえばキャブレターもRとは別物というこだわりぶり(なのに最高出力、最大トルクの数値や発生回転数は同一。ついでに161㎏という装備重量まで同じ!)。田舎の高校生でも「コスト計算は大丈夫なんかのう?」と心配になるほどの作り分けでした

 

高校2年生だった筆者も懇意にしていた(カタログをせしめるため勝手に押しかけていただけとも!?)小さなバイクショップで納車整備中のNSシリーズに大興奮すると同時に、RとFで異なるフレームやスイングアーム、ホイールに驚き、さらにサイドカウル内を蛇行するチャンバーの複雑なレイアウトなどを見て「凝り過ぎじゃないのかなぁ?」と偉そうに感じたものです。

追いついたと思ったら……2度にわたって敗れたホンダ

果たして後年、1980年代初頭のホンダ開発現場を知る人に話を聞けば、「開発費に制限はなかった」「何より独自性が求められた」「時間を金で買うため10数個レベルの試作品は同時に作った」「MVXNSではまだ緻密な2ストオイルの吐出量管理ができていなかった」などと驚きのエピソードが続々……

ホンダ2ストスポーツイメージ

●Vツインエンジン、NSシリンダー、排気デバイス、アルミフレーム、レーサー開発部門であるHRCとの関係強化……。後年のNSRへ続く道筋を構築したという意味でもNSシリーズの功績は大きいと言えます(写真は88NSR)

 

ともあれ先行するRZ250R/RRRG250Γに追いつき追い越せと無制限と言っていい潤沢な資金を投入してスピード開発されたNSシリーズは一定の人気こそ得たものの、翌1985年に登場したヤマハのブランニューマシンにすべてを持っていかれます。

その名は「TZR250」。

TZR250

●この姿を見るだけで、筆者の心は高校3年生に戻ってしまいます。いやもう全てが美しく合理的で戦闘力も超一級(当時)となれば、人気の出ないほうがおかしい。生粋ヤマハファンのSクンが、しばらくは放課後、口(くち)プロレスの王者に君臨し続けました(笑)

 

“レーサーレプリカのレベルを一気に数段飛びで進めたこのバイクは、まさに衝撃的。バイク誌もこぞって大特集を組み、別次元の高性能ぶりが知れわたるや爆発的なセールスを記録し、大人気だったSP(スポーツ・プロダクション)レース界をも席巻……。この超強力なライバルの存在がなければNSR250Rも生まれてこなかった、と言っても過言ではないでしょう。

中編へつづく

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