(前編はこちら

追っても追っても逃げ水のように遠のき、技術の差を見せつけられる……。1980年代初頭から中盤にかけてホンダは、こと2ストスポーツの世界においてはスズキとヤマハに苦汁を味わされ続けました。MVXを早々に終了し、NSシリーズでやっとRG-Γ、RZ-R/RRに追いついたと思ったのですが、なんとそこからヤマハ発の“ゼロ戦”が出てきたような衝撃!

それがTZR250だったのです。

ライバルを全て周回遅れにしたリアルレーサーレプリカ

山口県の片田舎で“3ナイ運動”に絶対服従しつつ、月に1度の「モーターサイクリスト」誌の発売だけを生きる楽しみに灰色の受験生生活を送っていた高校3年生の冬。

500円玉を握りしめ地元の原田書店で買ってきた1985年の12月号をパラリと開いた瞬間、世界は白と赤のブロックパターンに塗りつぶされました。

1986年型TZR250

●1985年11月に衝撃デビューを飾ったTZR250。……何というか、たとえるならイモムシが蝶に羽化、悟空がスーパーサイヤ人に変身、地味だった同級生がギャル化……。とにかくそれまでの旧態依然としていたバイク像が一気に書き換えられたような興奮を覚えたものです。RZ250RR(アンダーカウル付き)より23㎏も軽い装備重量142㎏という数値こそが、全てを物語っていた気がいたします

 

B5判サイズの雑誌の写真からでも伝わってくる軽量かつコンパクトさ、そしてテールエンドに至るまでスキのない高すぎるデザイン性……そう、そのニューモデルの名は「TZR250」でした。

あのエディ・ローソン選手らが駆るWGPワークスマシン(YZR500)開発陣によって、市販レーサーTZ250と共同開発された正真正銘のレーサーレプリカ……というのが初代TZR2501KT)の出自です。

TZR250の青色

●レースやラリーでの活躍も印象的だったソノートヤマハのイメージカラー、通称ゴロワーズブルーに塗られた仕様も説明要らずのカッコよさ……。クリスチャン・サロン選手を模したライダーも大量発生いたしましたっけ。後日、マールボロ特別仕様車も登場しました

 

外装類が取り外されたカットでは銀色に輝くアルミデルタボックスフレームがとてつもない存在感を放っており、そこだけをとってもライバルたちを一気に時代遅れにした感がありあり。

TZR250カタログ

●1986年式の市販レーサーTZ250フレームの基本ともなったTZR250の新開発アルミデルタボックスフレーム(中央)。一卵性双生児とも言える2台の車両を向き合わせで並べた写真も数多くのバイク誌誌面を飾りました。とにかくカッコよかった……!

 

実際のところゼロヨン、最高速、筑波タイムアタックなどでも圧倒的なデータを記録して人気はすぐに大爆発! 1985年末から翌1986年はまさに「TZRにあらずんば2ストレーサーレプリカにあらず」というような雰囲気に日本は覆い尽くされました。

高校の免許ナシ二輪好き「口(くち)プロレス(←要は舌戦)同好会?」でも、ヤマハ推し一派が常にドヤ顔で勝ち誇っていたものです(←受験勉強しろ)。

吹っ切れたホンダ開発陣ほど恐ろしいものはない

そのころ、ホンダ陣営は何をしていたのか……? 

後日、バイク雑誌編集部員時代に関係者からこっそり聞いた話では……。

TZRの登場は衝撃だった。当然、すぐに購入して細部まで徹底的に調べたが、シリンダーを焼き付かせない巧みな設計、2ストオイル吐出量管理の緻密さ、そして何といっても新規開発エンジンに最適化されたYPVS(ヤマハ・パワー・バルブ・システム)が生み出す低速域からの厚いトルクと高回転域ではじける力強さの両立には舌を巻いた」と好敵手を手放しで賞賛しつつも冷静に分析。

ならばこちらも同様の手法で……とばかり、1985年にフレディ・スペンサーが駆って250㏄クラスの世界GPタイトルを獲得したファクトリーマシンRS250RW(一般的にはNSR250と呼称)を開発現場へドンと置き、「この車両を公道へ解き放つ!」という明確な目標のもと、デザイン、エンジン、シャシー、操縦安定性ほかを担当するチーム全員が一致団結。NSシリーズのとき以上にHRC(ホンダ・レーシング・カンパニー)との濃厚な連携体制も築かれ、ノウハウの共有化も進んでいったとか。

●オール手描き(!)の透視図をドーンと配した初代NSR250Rの店頭向けポスター。「イッツ ホンダ レーシング」ですよ。「2ストローク・エポック」ですよ。目の字断面アルミツインスパーフレームに新設計の249㏄水冷2ストV型2気筒クランクケースリードバルブエンジンを搭載。車名もズバリ、ファクトリーレーサーNSR250を一般道……Roadへと解き放つ、という開発陣の熱い想いが込められていたのです

 

中でも膨大な試行錯誤が繰り広げられたのは、YPVSを超える排気デバイスの創出。

4ストロークエンジンのように、きっちり開閉仕事をこなす吸排気バルブを持たない2ストロークエンジンでは、シリンダーにポッコリと開いた穴……つまり「排気ポート」の形状や位置、大きさが出力特性の要となります。

特許の網をかいくぐり高性能な排気デバイスを実現!

混合気の充填効率を高めるためには、できることなら回転数に応じてポートの大きさ(排気タイミング)を自由自在に変化させたい……。そんな技術者の夢を理にかなった構造でいち早く実現したのがYPVSでした。

排気ポートの近くに設定された鼓型の金属パーツがサーボモーターによって回転するというもので(以降、スライド式も登場)、言うまでもなく周辺技術に至るまで“特許”でガッチリ固められています。

それらに抵触しないよう回避して回避して出来上がったのがRC(レボリューショナル・コントロールド)バルブ。

●ピンク色の部分、羽根型のバルブ(上)をサーボモーターの動きをワイヤー経由で伝達するプーリー(下)が作動させるというのがRCバルブの仕組み(図版はMC18後期のもの)。透視図なので描かれてはいませんが、前側シリンダーと後ろ側シリンダーのそれぞれにバルブとプーリーは存在しています(それらを動かすサーボモーターは1つ)。初代NSRからシリンダーやクランク関係をバラさずに変速ギヤ部分のみを取り出せるカセット式ミッションを採用していたのも、レースユース時における大きなアドバンテージとなりました。まさにHRC直系マシン!

 

1気筒当たり21組の弧を描く羽根のようなバルブが上下にスイングして排気ポートの上端部を開閉するというもので、ピストンとの透き間を小さくでき、高出力化のため排気ポートをより拡大しても対応できるという構造上のメリットまで持つものでした。

そしてTZR250登場の衝撃から11ヵ月後の198610月、初代NSR250RMC16)が満を持してデビューいたします。

NSR250R初代

●スーパーカブ、CBシリーズ、そしてNR500の例を持ち出すまでもなく、ホンダといえば「4ストローク」の会社。なおかつMVX、NSと連続で辛酸を嘗めたこともあり、みたび集められた2ストスポーツ開発チームはメインストリームから弾き出された個性の強い変わり者そろいだったとか。その多くがHY戦争時に怒濤のスクーター攻勢をかけた猛者たちで、一度ベクトルが定まるとおのおのがとんでもない能力を発揮した……とは開発責任者談。無頼の野武士軍団が奇跡的大ヒットモデル「NSR250R」を生み出したのです!

 

「やられたらやりかえす……倍返しだっ!」

最高出力の公称値は45馬力でライバル群と横並びながら、最大トルクでは初期型TZRより0.1m上回り、装備重量は1㎏下回った141㎏。そして価格はTZR+ポッキリ1万円の559000円……と、えげつないほどの狙い撃ち。

バイク雑誌もこぞってTZRとの対決企画を掲載し、その高性能に偽りなしとの口コミが全国に広まるころには、鬱積の溜まっていたホンダファンの圧倒的な支持もあってか販売台数はうなぎ登りに急上昇!

19873月に特別仕様として追加された“テラブルー”仕様も高い人気に拍車をかけていきます。

テラブルーNSR250R

●テラ(TERRA)とは全日本ワークスチームのメインスポンサー「味の素」が発売していたアイソトニック飲料の名称。そのイメージカラーをまとった発売された青×白は主要諸元、価格ともに赤×白から変更はなし。さて、一躍大ヒット作となったNSRですが、いざ1987年のレースシーズンが始まると意外なほどの苦戦続き。原因がシャシーにあると突き止めた開発陣は初代の87年内生産分からフレームに大改良を実施。同時進行でそのノウハウを絶賛開発中だった“ハチハチ”へフィードバックしたそうです。今ではとても考えられない離れ業……

 

ちなみに筆者はTZR旋風吹き荒れる1986年の春に、なんとか浪人せず埼玉の大学に合格してホンダMTX50Rをゲット。下宿のあった草加市から上野バイク街へ毎週のように通い詰めておりました。そんな自分の目から見ていても、1986年末から87年にかけて国道4号線(昭和通り)に横付けされる車両のうち、NSRの占める割合が一気に増えていくことに驚きを隠せませんでした。

個性全開で覇を競った当時のライバルたち。そして……

KR250

●1978年から81年にかけ4年連続で世界GP250㏄クラスを制したカワサキは、1984年4月に満を持してレーサーと同じ名前を持つ「KR250」を当時価格49万8000円で発売開始。2気筒を前後に並べる直列2気筒(タンデムツイン)エンジンが特徴的でしたね。翌1985年4月にはKVSSという排気デバイスを追加し、扱いやすさを高めた「KR250S」がデビューしています(価格は変わらず)

 

RG250Γ WW

●初代で大旋風を巻き起こしたRG250Γはアルミフレームと並列2気筒エンジンを踏襲しつつ、1985年3月に3型へと移行。車体を覆い隠すカウリングが採用され(フルカウルより2万円安い46万円のハーフカウル仕様も選択可)、SAECという排気デバイスも新たに導入。濃紺ボディに赤と金の差し色が印象的なWW(ウォルターウルフ)仕様も登場して人気を集めました(写真は86モデルのWW仕様)

 

三度目の正直でようやく250㏄・2ストスーパースポーツモデルのトップランナーの称号を手に入れたホンダ。

しかし勢いづいたホンダ陣営は「まだまだやり残したことがある!」と開発の手を緩めません。ついにはライバル群を完膚なきまでに撃墜する圧倒的パフォーマンスマシンが生み出されます。

それが今や伝説にもなっている“88(ハチハチ)NSR”だったのです。

NSR250R_1988

●その佇まいからしてタダモノではないオーラを感じさせる1988年式NSR250R(MC18)。絶えることのない電子制御のブラッシュアップが、以降のNSRを孤高の存在へと押し上げていきます

 

後編へつづく

NSR250Rという奇跡:前編 〜誕生前夜 HY戦争後に2度の敗北〜

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