ライダーにとって欠かせない夏の風物詩である“鈴鹿8耐”。1978年に始まり40年を越える歴史を持つこのバイクレースも、コロナウィルス蔓延の影響を受け2年連続中止となった。しかしこの夏、3年振りに“8耐”が復活する。

長い歴史の中で数多の物語や伝説に彩られてきた8耐。なかでも社会現象となるほどの盛り上がりを見せた1980年代後半に生まれたあるストーリーについて紹介したい。当時、人気芸人だった島田紳助が率いて8耐に参戦した「チーム・シンスケ」をめぐる話、今回はその後編である。

「鈴鹿8耐」の知られざるストーリー。チーム・シンスケが挑んだ、あの夏の物語(前編)はこちら

スズキGSX-R750

1988年、チーム・シンスケ鈴鹿8耐初出場を果たしたマシン。前年の全日本TT-F1で辻本聡がチャンピオンになったGSX-R750がヨシムラから貸与された。味の素と南海部品がチームをスポンサードした。

転倒リタイアに終わった初の8耐

鈴鹿8耐を日本最大のレース、イベントに押し上げた要因のひとつは著名人や芸能人によるレース参戦だった。その代表と言えるこの「チーム・シンスケ」は、お笑い芸人の島田紳助とひとりのベテランライダーの出会いに始まった。そのライダーは後に“8耐の神様”とまで呼ばれるようになる千石清一だ。

監督の紳助をはじめ、ほぼ全員がレースに関わった経験のない素人というチーム・シンスケは1986年、鈴鹿8耐に初エントリーする。ライダーは千石清一と全日本に参戦する大塚茂春の二人。8耐は前年の85年、〝キング〞ケニー・ロバーツ/平忠彦がペアを組んだヤマハの「TECH21」チーム効果もあり、ブーム絶頂を迎えようとしていた。

チーム・シンスケは予選でなんと104チーム中14位という好順位を記録する。プライベーターでは文句なしのトップクラスだった。決勝レースでも予想以上の走りを見せ、43周目、8位という上位を走っていたとき、千石はコース上に散ったオイルで転倒を喫してしまう。結果はリタイア。チーム・シンスケ初めての8耐は、手応えとともに悔しさを残して終わった。

チーム・シンスケ

1986年、鈴鹿サーキットのスターティンググリッドに並んだ千石清一と島田紳助。二人の友情から生まれたチーム・シンスケが、80年代の8耐ブームを大きく加速させた。

8耐を完走したら、必ず泣ける

チーム・シンスケを結成したとき、千石は仲間に「8耐を完走したら、必ず泣ける」と約束していた。それを果たせなかったのが悔しかった。1年だけで止めるつもりで始めたチーム・シンスケだが、いつしか全員が「完走するまでやろう」という気持ちになっていた。 だが、翌87年はアクシデントが重なり予選落ち。目標の完走を果たしたのは、参戦3年目となる88年のことだった。ライダーは1年目と同じ千石/大塚ペア。決勝順位はプライベーターとしては上位の27位だった。

 「完走報告の記者会見を開いたとき、紳助がビックリすることを言い出したんですよ。〝次は15位以内を目指します〞とね。当時はファクト リー系だけで30チーム、海外のトップライダーもたくさん来ていた。そんな中で15位以内は〝正直、ムリやろ〞と思った。会見では〝はい、がんばります〞と言うしかなかったけどね」

しかし翌年の8耐で、なんとチーム・シンスケは宣言通りの決勝15位を達成してしまう。それまでは〝芸能人のお遊び”と斜に構えていたレース関係者も認めざるを得ない結果だった。そしてチーム・シンスケの活躍に触発されるように多くのタレントや著名人が8耐に関わりはじめ、大手企業のスポンサーも増えた。そして90年には決勝日の観客動員が16万人に達する。8耐人気は絶頂を迎えたのだった。

鈴鹿8耐

1989年、チーム・シンスケは目標に掲げた決勝15位を達成。多くのワークスチームがエントリーするなか、快挙というべき結果を残した。

チーム・シンスケは遊びじゃなかった

「紳助が〝目標は15位以内〞と言ってじっさいに達成したとき、オレはすごく感謝したし、嬉しかった。でも同時に〝自分としては限界だな〞とも思った。レースはどんどんハイスピード化していて、もういっぱい、いっぱい。40代半ばという年齢もあったし、潮時だなと。それで91年に引退レースをさせてもらったんです。最後は転んでリタイアという結末だったけどね()

その後、チーム・シンスケは95年まで10年にわたり8耐出場を続けることになる(2011年に一度だけ復活)。91年を最後としてライダーを引退した千石は、それ以降2003年までマーシャルライダーとして8耐に関わり続けた。

「チーム・シンスケで走るのは遊びじゃなかった。このチームとなら上を目指せると思っていたし、すべてを懸けていたね。紳助もタレントとかそういうことは関係なく、監督として本当に素晴らしいと思った。ライダーが何周走って、何分何秒にはピットに入ってくると言うと、計算が1、2秒しか狂わない。このまま走れば何位になる、15位に入るためには何秒で走って、ピット作業を何秒でやって、と。その通りにやったらホントに15位に入ったからね。プライベーターではトップだった。夜中に突然電話がかかってきて“いまトップチームは何秒で走ってる?” と聞いてきたり、レースの何ヵ月も前からずっとシミュレーションしてるんだよ。レース経験がないのにあそこまでできるというのは本当にすごい。だから周りも紳助のことを認めたよね。いちばんはじめレース関係者に“チーム・シンスケで8耐を盛り上げたい”と話した時には、“千石くん、そんな右も左もわからない芸能人に監督なんかできるわけない”と言われたんだから。そりゃカチンときてね、〝コイツ、見てろよ〞と思った。でも、紳助があるとき言ったんだよ。〝これは誰との戦いでもない、俺と千石さんの戦いやで〞 とね。それでオレも燃えたよ。だから15位に入れたし、チーム・シンスケは 10年続いたんだと思う」

千石清一

せんごく・せいいち。1947年生まれ。兵庫県出身。鈴鹿8耐に第一回から出場し、86年から「チーム・シンスケ」のライダーとして参戦。91年現役引退。92年より世界初となるFIM公認の鈴鹿サーキット マーシャルライダーを務める。

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