バイクブームと位置づけられる1980年代。新型車が毎月のように発売され、飛ぶようにバイクが売れていた時代。当時の熱狂ぶりは凄まじく…、と編集部からの「お題」に乗って威勢よく書き出したいところなのだが、そうはいかない。僕自身バイクに乗り出したのは90年代前半。残念ながら80年代の熱狂的なブームをバイク乗りとしては体験してないんだよね。
我が家にXS250がやってきた!
ただ当時、バイクがブームだったってことは子どもながらになんとなく覚えている。おふくろは僕が小学校に入るか入らないかの頃から原付(多分ヤマハのパッソル)に乗っていたし、当時はノーヘルOK。二人乗りは当時からNGだったが、お袋の後ろにしがみついて近所のスーパーなんかについていった記憶がある。コソコソはしてたように思うが、お巡りさんに見つかっても「ダメだよ〜」くらいで、「免許出せ!」とはならなかった記憶がある。随分おおらかな時代だったのだ。
その後、親父が中古で買ってきたベンリィ系のギヤ付モデルを通勤で使い始め。故障だか、なんだかを理由に250ccのバイクへステップアップ。この辺りがちょうどバイクブーム。思えば親父もブームに乗っかったライダーの1人だったのだ。愛車を選ぶ親父の脇からヤマハのカタログを覗き見て「こっちのカッコ良さそうなやつにしなよ」なんて言いながらカウル付のモデルを指差したが、「ちょっと恥ずかしくて乗れないよ。買うのはヨーロピアンタイプのこっちにする」と親父がネイキッドタイプのバイクを指さした。それが写真のヤマハ・XS250だ。
かくして我が家にヤマハのXS250がやってくることになったわけだが、当時の僕はタンデムするには背丈が足りずステップに足が届かなかった。ハンドルクランプあたりに掴まるようにしてタンクにまたがり「60km/h出してよ!」なんて騒いでいた記憶がある。しっかり後部座席に座れるくらいの身長になると、親父がいろんなところへ連れ出してくれた。クルマがなかった我が家に、ヤマハのXS250はモータリゼーションの革命を起こしたのだ。
実際いろんなところに連れて行ってもらったが、生活圏を一気に抜け出し移動できるバイクの機動力にたいそう驚いた。当時は高速道路で二人乗りができず全て下道だったが、思えばこの80年代のバイク体験があったからこそ、今バイクでご飯を食べさせてもらっている僕がいるようなもんだ。それに親父と早くからタンデムで色々出かけていたせいか、バイクに熱中する中学、高校の同級生たちのような「1日も早く免許が取りたい!」とか「今度出る○○は○○馬力! すげー!」みたいな盛り上がり方をすることはなかったが、小学生の頃から“大人になれば当然バイクに乗る”つもりでいたのは確かだ。
僕が中免、今で言う普通自動二輪免許を取るのは90年代になってからだが、初めて公道を走ったバイクも実はこの親父のXS250だった。免許センターで交付されたその午後には親父のバイクを持ち出して、友達と近場にツーリングに出かけた記憶がある。そうそう、それでいきなり白バイ隊員に呼び止められて、その日の午前に交付されたばかりの真新しい緑帯の免許を見せることになったのだ。処罰されるようなことは何もしてなかったが、おぼつかない運転にしては年季の入ったバイク。白バイ隊員は「このガキ免許持ってるのか? 盗難車か?」と思ったに違いない。
…ってなところが僕の80年代ストーリーだけど、それだけじゃ面白くないので、僕が業界に入ってから聞いた80年代(たぶん)の逸話をいくつか紹介しよう。
「どちらの試乗会に行く?」
今では考えられないようなことだが、当時は、国内4メーカーから毎月のように新車が発売され、それにモデルチェンジラッシュが拍車をかける。花形マシンは年に2回のモデルチェンジしたこともあったようだ。これだけならユーザーも万々歳なのだが、メーカーは新しいモデルやモデルチェンジがあると、説明会/試乗会を催して媒体関係者に“記事にしてください!”と盛大にお披露目するのが慣わし。しかも、当時は前泊しての懇親会付が当たり前。僕がバイク雑誌編集者になってからしばらくは前泊付きの盛大な新車発表会は頻繁にあったけど、06年あたりに浜名湖で行われたスズキ・GSR400の発表会あたりが最後だったかな。
さてそんな感じで1泊2日の新車発表/試乗会がジャカスカ行われると、○社と○社の試乗会の日程がもろかぶり! なんてこともあったらしい。そうなるとメーカーから広告をもらっているバイク雑誌の編集部は頭を悩ますことになる。当然ながら参加しないなんて選択肢はないのだが、雑誌のトップである編集長がどちらの試乗会に顔を出すか?の選択を迫られるのだ。現場では二輪広報担当者に「なるほど〜。○○誌の編集長さんは向こうの試乗会に行かれたんですね。ああ、そうですか〜、○○誌さんの考え方はよ〜くわかりました」なんてことも普通にあったようだ。くわばらくわばら。
「で、まんじゅう食ったのか!?」
昔のツーリング取材は、デジタルカメラではなくフィルムカメラ。フィルム代、現像代がかかるため無駄撃ちできず、ちょっと曇るだけでフィルム感度の問題で写真が撮れない。天候に大きく左右されるツーリング取材はとにかく日数のかかる仕事だった。僕もギリギリフィルム世代なのだが、ツーリング取材に出るとカメラマンは終始神経質だった記憶がある。撮ったその場で画像の確認ができるデジタルカメラとは違い、フィルムカメラはその場で画像確認ができない。現像してみるまでちゃんと写ってるかどうかもわからない状況で撮れ高を気にしながら仕事していたのだから神経質になるのも当たり前だろう。
そんな手間のかかる仕事だから、老舗ツーリング雑誌の編集部では、現場での本編記事作成部隊と、マップやガイド要素の取材チームを分け、夜になると宿で合流するなんて感じの取材方式だったらしい。当然、ベテラン勢は本編部隊、新人がマップやガイドを担当することになるのだが…。本隊よりも先にペーペー部隊が宿に入ってくつろいでいようものなら、もう大変。「先輩を差し置いてお前らなぁ…」なんて説教を喰らうことになったらしい。とある新人編集者は、そんな状況でさらに部屋にあったお茶菓子まで手をつけてしまい大目玉。実はその「まんじゅう食っちゃった」方が、このForRのライター陣にいるようだぞ。くわばらくわばら。
まとめ:80年代の残り香はまだ味わえる!
80年代というと“バブル経済”もオーバーラップして、何かと悪いイメージばかりがあるけど、当時の日本は間違いなく潤っており、いろいろなことにお金がかけられたことも確かだ。バイク業界ももちろんその一つ。1年に2回のモデルチェンジでライバルに差をつけるなんて話は今では考えられないこと。それに当時の各社ラインナップの数が尋常じゃない。現状、バイクの中でもマイナーなオフロードバイクはメーカーによってはなかったりするメーカーもあるが、当時は、2ストに4スト、それに排気量違い、バリエーション違いで常時4台、5台のラインナップを擁していたのだ。しかも、マシンを見ると細部まで非常に凝っているモデルの多いこと、多いこと。排ガス規制対応、コストダウン、プラットフォーム戦略なんて言葉が常套句となった現代の新車事情からするとかなり羨ましい話だ。ただ悲観することはない。そんな80年代バイクブームは“中古車”という形でなら、まだなんとかその片鱗を感じることができる。流石に40年近く前のマイナーモデルはもう残ってないだろうが、当時の名車と呼ばれたモデルたちなら大事にされて来たモデルが球数は少ないけれど出てくることがまだまだあるのだ。