「昔は良かった」なんて過去を礼賛する気は毛頭ございませんが、現実社会で実際に起こった出来事として「すごかったよなぁ……」とタメイキが出る事象はバイク界でも山ほどございます。その中のひとつが、やはり1981年から1983年まで燃え上がった“スーパーゼロハン”バトルでしょう。戦いの扉をこじ開けたのは、250㏄クラスに引き続きまたしても“RZ”だったのです。

50㏄クラス初の水冷エンジンを引っさげて……

1980年代、空前のバイクブームを語る上で避けて通ることのできないエポックメイキングな1台と言えば、1980年8月に衝撃的なデビューをはたしたヤマハRZ250のこと。

初代RZ250

●ええ、♪何度でも何度でも何度でも〜♫紹介いたしますよ。とにかく空前絶後の80'sバイクブームを強力に牽引したバイクとしてヤマハRZ250は外せぬ存在。信じられないかもしれませんが、RZのデビュー当時はまだ「たとえスポーツバイクでも水冷化は不要!」という論調がまだ残っており、バイク誌では“水冷vs空冷”なんて企画もメインを飾っていたほど。それらの抵抗勢力を圧倒的な実力差で蹴散らしたのが35ps水冷エンジンを搭載したRZシリーズだったのです

 

RZ250YACリミテッド

●なお、1983年にはヤマハオートセンター創立10周年記念の一環として、キャンディブルーの塗色も美しい「RZ250 YAC-LIMITED」が300台特別限定生産され、ヤマハオートセンターだけで販売されました。YACとはY=ヤマハ、A=オート、C=センター。念のため書いておきますと「ヤマハオートセンター」とは、株式会社レッドバロンの前の社名です(2004年に社名変更)。う〜ん、この蒼きYAC限定RZ250、実動車はまだこの世にあるのだろうか……気になります!

 

翌年2月には“ナナハンキラー”と称されたRZ350(45ps/3.8kgm)も登場し、両車はともに大ヒット街道をばく進していきます。

1982_RZ350_YSP

●RZ350……。大学時代、同じ下宿に住んでいた先輩がセパハン・チャンバー・バックステップという当時のカスタム三大神器を組み込んだ車両を持っており、ちょっとだけ乗らせてもらったのですが、不用意にスロットルを開けた瞬間にサオ立ち(ウイリー)したのには肝を潰しました。あと5度ほど右手をひねっていたら、筆者は今ごろこの世にいなかったかもしれません。とにかく圧倒的なジャジャ馬でした。なお写真は1982年に発売されたRZ350 YSP限定仕様

 

そして勢いに乗りまくるヤマハが放ったRZブランド第三の矢こそ、1981年6月に突如現れた「RZ50(5R6)」でした。

RZ50ブラック

●7.2ps/9000rpmの最高出力と0.62kgm/8000rpmの最大トルクを発揮する49cc水冷2ストローク単気筒ピストンリードバルブエンジンを軽量&高剛性なダブルクレードルフレームに搭載。燃料タンク容量は10ℓで乾燥重量は75㎏。足周りも前後18インチキャストホイール、フロントディスクブレーキ、リヤにモノクロスサスペンション装備と抜かりなし。当時販売価格は17万6000円……。タイムスリップができるならホワイト、サンシャインレッド、ヤマハブラックの全色をそろえてコレクションしておきたい(汗)

RZ50カタログ

●いちいちカッコいいヤマハはカタログもいちいちカッコ良かった! 上部分の白地に墨色の車名がビシッと配される構成は当時のヤマハモデルカタログ共通のレイアウトで、バイクショップの陳列棚にズラッと並んでいる姿を見るだけで胸がときめいたものです

 

RZ50エンジン

●Y.E.I.S.(Yamaha Energy Induction System)とはヤマハ発動機が1980年に開発した、2ストロークエンジンの吸気管に用いられる付加装置の名称。エンジンの吸気管にチャンバーをつなぐというシンプルな構造ながら、吸気効率を大幅にアップさせることができたという

 

RZ50透視図

●革新の1本リヤサス「モノクロスサスペンション」を採用したことを透視図で訴求。クロスレシオの6速ミッションも50㏄クラスにはまだ珍しかった時代だったのです

 

RZ50カタログ裏

●嗚呼、このカタログ。筆者は中学生のくせにバイク屋のオヤジさんに頼み込んで一部もらって帰ったっけなぁ……。教科書の端っこを使ったパラパラマンガにも登場させた記憶があります(笑)

兄貴分とは全く異なるデザインテイストで登場!

当時、筆者はまだ中学1年生

小学校時代から愛車として大切に乗っていたリトラクタブルヘッドライトもカッコよろしい、ミヤタ・スーパーサリー号(分からないヤングは調べてみてください)のリヤフィニッシャー修理のため自転車屋へ立ち寄ったとき、ハミング、スワニー、ポエット(分からないヤ[以下同])などがズラリと立ち並ぶ奥に、まるで未来から飛んできたような超絶シャープかつ流麗なスタイリングのRZ50を見つけてしまい、1時間ほどその場から離れられなくなった記憶があります。

RZ50赤色

●兄貴分譲りの“火炎”を想起させるキャストホイールデザインも絶妙に美しいサイドビュー。細部に目を転じてもカクカク四角のヘッドライトや二眼式メーター、文字の配置までキマっているラジエターシュラウド、給油口周辺をスッキリ見せる樹脂カバーに至るまでいちいち美しい芸術品のようなスタイリッシュさがあふれており、自転車修理を終えたオヤジさんが「いつまで見とるんじゃぁ!?」と少々いらつきはじめるくらい長居してしまったことを鮮明に思い出しました

 

90㎞/hまで明示され、100㎞/h領域まで加色が施されたスピードメーターにも凄まじい衝撃を受けたものです。

大さじ3杯+小さじ1杯弱の排気量が生む超能力

改めて考えてみてください。RZ50はゼロハン……つまり第一種原動機付自転車ですよ。16歳になれば簡単な学科試験と実技講習だけで免許を取得できたり、普通自動車免許取得者なら誰でも乗ることができるお手軽な二輪車ですよ。

排気量はあのヤクルト(おなじみのサイズは65㎖)より約25%少ない(!?)たったの49㏄。直径40㎜という小さなピストンが39.7㎜幅で往復しまくってウマ7頭強分のパワーを生み出し、ライダーを90㎞/h近辺にまでいざなう……。これをロマンと呼ばずして何をロマンと言うのでしょう。

RZ50白

●衝撃のデビューをはたし大人気となったRZ50ながら、なぜか強力なライバルが登場して以降の大きな改良は1985年1月、原付一種モデルの最高速度60㎞/h規制(後述)に対応して速度リミッターを装着するとともに、ミニカウルとアンダーカウルを採用した「RZ50(1HK)」になったのみ(用意された色は白だけで価格は19万3000円へ変更)。その後も放置プレイは続き、1990年2月に「TZR50」が華々しく登場するのを見届けるようにしてひっそりとカタログから姿を消しました……

 

クラス初となる水冷機構を搭載し、長時間の全開走行時でも熱ダレや“焼き付き”の不安が大幅に低減されるということで、RZ50は発売されるや空冷のホンダMBシリーズやスズキRG-E、カワサキARら諸先輩を突き放す、仏恥義理(読めますか?)の高人気を獲得いたします。

悪友のお兄さんも速攻で購入し、時間さえあれば国道2号・周南バイパスで最高速チャレンジを行っていたとか……。

男性アイドルとともにホンダ反撃の狼煙が上がる

「やられたらやり返す!」が当時の国内4メーカーにおける絶対的な

2ストローク250㏄クラスではなかなかヤマハに追いつけなかったホンダですが、50㏄クラスでは素早く魅力的な人気モデルを1982年3月に投入します。

それがCBX400Fを彷彿させるボリューミーなガソリンタンクも印象的なMBX50でした。

MBX50

●セミダブルクレードルフレームに搭載された49㏄水冷2ストローク単気筒ピストンリードバルブエンジンは最高出力7.2ps/8500rpm、最大トルク0.65kgm/7500rpmの実力。アルミブーメランコムスターホイールやプロリンクサスも採用され、全面新設計ぶりをアピールした「MBX50」。乾燥重量は79㎏で当時販売価格は18万6000円。左右幅もあった燃料タンクの容量は12ℓで、ロングツーリングにも余裕を持って対応した。翌年にはフルカウル付きの79㏄モデル「MBX80インテグラ」も登場している(12ps/0.97kgm・22万8000円)。MBX50はその後、5.6psへ馬力低減→7.2psに復活→ミニカウル装着など波乱万丈な車生を送り、1987年2月に登場した「NS50Fエアロ」へと世代交代されました

 

“たのきんトリオ”のメンバーとして絶大な人気を誇っていた近藤真彦(マッチ)さんのイケてる立ち姿と同じフレームに収まり、勝るとも劣らない存在感を放っていたMBX50の勇姿。雑誌や店頭ポスターなどで大量露出された、そんなビジュアルを今でも明確に覚えているシニア層は多いはずです。

“Γ”の称号を最初に背負ったのは50㏄モデルだった

そして同年12月、その年の世界GP500㏄クラスでスズキRG-Γ500を駆って世界チャンピオンを獲得したフランコ・ウンチーニ選手を全面的にフィーチャーしつつ、スーパーゼロハンの真打ちでもあるRG50Γ(ガンマ)がデビュー。

RG50Γオプション

●ゼロハン市販車初の角形パイプフレームに新規開発された49㏄水冷2ストローク単気筒パワーリード(ピストンバルブとリードバルブを併用)バルブエンジンを積み、あのRG250Γより3ヵ月前に登場していた「RG50Γ」。8000回転で発生する7.2馬力の最高出力こそライバルと同じながら最大トルクはMBXを0.01kgm上回る0.66kgm(7500rpm時)を発揮。さらに乾燥重量ではライバルを大幅に下回る69㎏を実現しており、バイク誌の定地テストではほぼ全項目でナンバーワンの座に君臨していた。当時販売価格は18万9000円。燃料タンク容量は11ℓ。なお写真のアンダーカウルはオプションパーツ。RG50Γは以降も小改良が重ねられ、途中でネイキッド版の「WOLF50」も登場させつつ1995年型まで命脈を保ちました

 

バイク雑誌はこぞって谷田部テストコースや筑波サーキットなどを貸し切り「水冷スーパーゼロハン限界テスト!」といった企画を立ち上げて、バイクに目覚めたばかりのボーイズ&ガールズを焚きつけました。

たしかΓに至ってはメーター読みではなく、光電管を使った厳密な実測テストでも最高速は95㎞/hを超えていたはず。

なお、恐ろしい?ことに前述悪友の友人のお兄ちゃんやそのまた友人まで含めるとRZ、MBX、RG-Γ、そしてARまでもがそろい踏みし、国道2号・周南(+防府)バイパスでのスロットル全開決戦が何度となく繰り広げられたとのこと。しかも全員ノーヘルで……。

AR50

●カワサキ初の本格的ゼロハンスポーツとしてRZ50の登場の2ヵ月前、1981年4月にデビューをはたしたのが「AR50」。49㏄空冷2ストローク単気筒ピストンリードバルブエンジンは最高出力7.2ps/9000rpm、最大トルク0.62kgm/8000rpmの実力。変速機もライバル同様の6段リターン式を採用していた。乾燥重量は72kgで燃料タンク容量は9.6ℓ。販売当時価格は15万3000円。この後も取り巻く状況の変化に対して真摯に対応を続け、1988年12月に登場した「AR50S Special」を最終型として生産を終了。最後まで空冷魂を貫き通したカタチに……

法定最高速度30㎞/hとの乖離が生んだ揺り戻し

そうなのです。1980年代初頭、第一種原動機付自転車のヘルメット着用は、あくまで任意でした(義務化は1986年から)。

今思えばゾッとする話ですけれど「メット買う金があったらガソリンとオイル代にするゼ」という蛮勇がまかり通っていたのです。

●日本で罰則ありのヘルメット着用義務化が始まったのは1975年のこと(政令指定道路区間かつ51㏄以上のバイク)。1978年には全ての道路で着用義務が始まったものの、ここでも原付一種は対象外。1986年にようやく全てのバイク、全ての道路でヘルメットの着用が義務化されました。なお、悪友のお兄ちゃん&その他の周南バイパスレーサー(?)たちは、誰一人夭折することなく50㏄マシンを卒業。ホッ……

 

はたして、スーパーゼロハンブームの過熱ぶりと、それに伴う重大事故の増加を重く見た当局は、各メーカーへ1983年9月から原付一種モデルが出すことのできる最高速度を時速60キロまでとする、俗に言う「60㎞/h規制」を要請。それを受けてメーカー側は対応に追われたり、いっそ生産を中止したり……と、なかなかの混乱をきたしたと聞いております。

個人的にはヘルメット義務化のほうを先行させるべきだったような気もいたしますが、近距離移動や日々の買い出し&配達をする方々にとってパッと乗れるお手軽モビリティとしての“原チャリ需要”がとんでもない数量だったことも関係していたのでしょうか……。

原付スポーツの楽しさはバラエティがあふれるものに

ともあれ、初代RZ50によって巻き起こった“スーパーゼロハン”ブームは1983年秋からの最高速度規制を境に一旦沈静化しました。

しかし、「ならば」とばかり電気式リミッターでの速度規制対応やクローズドコースを主戦場としたSP&ミニバイクレースの隆盛、メーカーからのバラエティあふれる提案などにより、ヘルメット義務化さえ追い風にした“原チャリ百花繚乱時代”が1980年代後半から訪れることになります。

1987_NSR50

●1987年6月,ホンダから「NSR50」がリリース。このモデルをきっかけにミニバイクレースが大いに盛り上がりました。次回はそのあたりの意味深エピソードも含めて語りますよぉ〜

 

そちらについては、また別の機会に紹介いたしましょう! 

80年代“ゼロハン”回顧録②を読む

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