国内仕様はナナハンまでの時代
みなさん、こんにちは。
今回は「限定解除試験」と「逆輸入車」について、書かせていただこうと思います。
1996年から教習所で自動二輪大型免許が取得できるようになりましたが、それまでは401cc以上のバイクに乗るには、ヨンヒャクまでの“中免”(中型二輪免許)を運転試験場での実技“一発試験”で限定解除する必要がありました。
また、オートバイ自体も国内はナナハン(750cc)までと、メーカーによる自主規制があり、国産であってもリッタークラスは逆輸入というカタチでしか手に入らない時代があったのです。オーバー750解禁となったのは1990年のことでした。
10回目で合格した限定解除
16歳でヨンヒャク(中型二輪免許)の免許をとったのが、1989年のこと。
片岡義男のオートバイ小説に影響され、カワサキのツイン「GPZ250」を購入し、全国を走り回ったボクですが、「小説に登場する650ccのバーチカルツイン、W1やW3がやっぱり欲しい!」と、限定解除試験に挑戦していくこととなります。
鮫洲運転免許試験場で合格したのは92年で、5月の誕生日前なら18歳、過ぎていたら19歳のことでした。
当時、ナナハンの免許は「司法試験より合格率が低い」とか「落とすための試験」などと言われていましたが、ボクの場合は深刻に考えず「受験していれば、いつか合格するだろう」と深く考えず、お構いなしに試験を受けまくりました。
試験は2〜3週間に1回受けることができて、ボクの場合は10回ほど通うと合格できました。実技の一発試験で、運転技術より進路変更やウインカーを出すタイミングをいかにお手本通りできるかがポイント。
試験場を完全フルコピーした民間教習所(“鬼の中川”さんって、有名でしたよね)もありましたが、試験を受けるお金で精一杯だったボクの場合は教習所には行かず、ひたすら風呂の中で目をつぶってイメージトレーニングを繰り返すのでした。
あっ、そうそう。「昔はタイヘンだった。いまは甘ちゃんだぜ〜」なんて、限定解除したことをエバったり、教習免許を見下したりする声をまれに耳にしますが、一発試験(限定解除試験)もボクが受ける頃にはかなり易化していると言われており、そういった自慢などはしないので、どうぞご安心ください。
逆輸入車に目がくらんだ!
片岡義男のオートバイ小説「彼のオートバイ、彼女の島」(1977年、角川書店)を読んで、憧れ焦がれたカワサキ650RS(1973年)。ナナハンの免許をとって「さぁ、買うぞ!」と、バイク屋さんを探しますが、ゼンゼン売っていません。
そして、ショップのスタッフさんらは必ずと言っていいほど
「辞めておいた方がいい」
とアドバイスしてくれます。
「ポイント式……、ナニそれ?」と聞き返すようなオートバイに対して無知な少年(いまも基本的に変わっていません)でしたので、旧いバイクの面倒を自分で見れないことを察して親心で言ってくれたのでしょう。
そこで欲しくなって買ったのが、逆輸入車 GPZ1000RX(1986年)でした。“世界最速”と呼び声高かったZZ-R1100の新車価格は150万円と手が届きません。
そこで2世代前にさかのぼり、中古車をローンで購入。片岡小説の世界にどっぷりハマっていたくせに、ヘルメットはシンプソンのフルフェイスとなり、週末の夜は第三京浜・保土ヶ谷パーキングへ通い出すのでした。
そこは大排気量バイクで溢れかえっていましたから、それを見ているだけで楽しいのです。バトルスーツを着たV-MAX乗りも見かけましたが、主役はカワサキの大排気量車たち。王道は空冷Zでしたが、GPZ900RニンジャからZZ-Rへ続く水冷4発の流れも人気があったと思います。
ただし、ボクが買ったGPZ1000RXは、鉄フレームで前後16インチと時代遅れ甚だしく人気はなく、その後にやってくるニンジャブームの頃にはエンジンだけがGPZ900Rや750Rの心臓部として売買される始末です。
それでもボクは、デメキンみたいに丸っこいRXがその頃も今も大好きです。
バイク専門誌や関連書にハマっていく
第三京浜に玉川から入る前、あるいは出た後に必ず立ち寄ったのが、環八沿いにあったクルマとバイクの専門書店「リンドバーグ」でした。深夜も営業していて、たくさんのバイク関連の本や雑誌に囲まれているだけで幸せ。次第に保土ヶ谷パーキングより、リンドバーグが夜に出かけるときの目的地となっていきます。
代官山蔦屋書店と一体となった今でもリンドバーグは、特別な場所に変わりありませんし、いま思えば、バイク雑誌をつくることに関わってみたいと潜在的に思ったキッカケとなった場所なのかもしれません。
今回は長くなったのでここまでにしておきます。最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
バイク購入から編集長になるまで【1/4】 片岡義男小説は今もボクのバイブル!!