スーパーカブ110で昭和の残り香を求めてダラダラ旅する「昭和レトロ紀行」。シリーズ第6弾は妻とタンデムで群馬県太田市と大泉町を来訪している。何気なく立ち寄った大泉町観光協会で、町の歴史を教えてもらうことに。何となくは知っていたけど、ブラジルタウンと「昭和」は密接な関係が。それどころかルーツは明治にまでさかのぼるのだった……。

これまでの記事はコチラ!
【昭和レトロ紀行】ここは日本じゃない!? 脂オブリガート、ブラジル料理の洗礼を浴びたゼ【群馬県太田市&大泉町編①】
【昭和レトロ紀行】創業55年超! 強烈なトンデモ旅館に泊まったら、妻が消えた!?【群馬県太田市&大泉町編②】
【昭和レトロ紀行】トンデモ宿のおかみさんに直撃インタビュー! その後は異国情緒にひたる料理を喰べまくり!【群馬県太田市&大泉町編③】

その名も「ブラジリアンプラザ」は何だか閑散としていて・・・・・・

ブラジルタウンなど多国籍な街として知られる群馬県大泉町。二日目の朝飯を済ませた後、足を運んだのは、その名も「ブラジリアンプラザ」! 凄い名前だが、大泉町観光協会のほか、旅行代理店、不動産会社や美容エステが出店しているという。ブラジルタウンの総本山的な場所なのだろうか。

↑唐突だけど、そんなバカナ! 通りがかった店の名前が面白かったので、つい……。bakanaとはポルトガル語で「イケてる」「カッコイイ」などの意味らしい。

↑で、ここがブラジリアンプラザ。スーパーカブの小ささを見てわかるように、かなりデカい。そしてシュールな壁画が目印(笑)。■群馬県邑楽郡大泉町西小泉4-11-22 8:30~17:30 日&祝日休

 

入ってみると、ガラーンとして人気がない。元々はショッピングセンターだったようだけど、前述のような店はなく、閑散としている。

↑入ってすぐのスペース。緑がたくさんあるけど、売り物ではないみたい。

↑やたら広いスペースだが、イベントホールらしい。

 

奥に進むと大泉町観光協会がある。

↑大泉町観光協会は「日本定住資料館」でもある。いや、観光協会の方がフォントが小さい。入口にはサンバ衣装の写真を撮れるパネルが笑。

↑妻でパチリ。に、似合わない!

 

観光協会の中に入ると、何やら文章がたくさん書かれた資料がズラリと並ぶ。ブラジルタウンができた理由が詳細に書かれているのだ。

↑非常によくまとめられた資料。当時の新聞記事もある。

↑ブラジルに関する文献や移民資料が無料で閲覧できる資料館もアリ。

デカセギが本格化したのは初代NSR250Rの頃から!

↑妻も勉強中。


ひたすら壁に貼られた文章を読むこと30分あまり。ブラジルタウンができた理由はもちろん、現在の状況や課題まで分析されていて読み応えがあった(ありすぎた笑)。

まず事の始まりは……昭和どころか1900年代初頭までさかのぼる! ブラジルで農業労働者が不足したため、1905年(明治38年)に日本がブラジルへの移民を募り始めた。当時は日本も経済不況で、戦前まで17万9321人がブラジルに移民したそうだ。

時代は飛んで1980年代になると、ブラジル経済の悪化で多くの人が職を失い、ブラジルへ移民として渡った日系ブラジル人の間でも失業者が増加。好景気に沸く日本で“人手不足”の現状が知れ渡るようになり、人材紹介(デカセギ)が始まった。

このデカセギは1984年(昭和59年)にスタートしたけど、日系ブラジル社会では「過疎農村からの出稼ぎ」という暗いイメージと重なり、当初はわずかな数に留まっていた。デカセギが本格化したのは1987年(=昭和62年、NSR250Rがデビューした翌年!)。1985年頃に渡日したデカセギ第一陣が帰国し、「成果」が具体的に示されたことで日系社会でデカセギへの関心が高まった。

↑1986年10月にホンダから発売された初代NSR250R(MC16)。この頃からデカセギが本格化したのだ。

 

さらにあっせん業者=エージェントが急増。ちなみにブローカー間で一人を紹介するごとに約10万円の報酬が相場だったとか(!)。

↑「デカセギの転機」という文言がちょっとおもしろい。

 

その後デカセギがブームになったが、バブル崩壊でブラジル人の来日数は鈍化。非正規雇用であり、労働条件も悪化していく。ちなみに当時の電話料金についても書いてある。デカセギで来日した人は家族を母国に残しており、寂しさから母国に連絡する人が多かった。公衆電話に長蛇の列ができるほどだったが、当時の国際電話は1分330円! 30分話せば1万円で、給与の半分以上を電話代に使っていた人が多く発生していた、という。

そして時代は過ぎ、2008~2009年にリーマンショック、2011年に東日本大震災が発生。ブラジルは地震が少なく、震度3でも町中が大パニックになるという。雇用が不安定な中、地震もあり、多くの日系人が帰国したそうだ。

さらに現在の課題として、日本国籍を持たない子供の教育問題、日系人の高齢化なども挙げられていた。

実録、月の電話代は5万円! デカセギしたAさんの歴史!

↑一例としてパネルで紹介されていた「A」さん(女性)の歴史。


デカセギの「Aさん」(女性)の事例を紹介しよう。日系ブラジル人のAさんは1986年に3人目の子供を出産。1987年に弟が日本にデカセギして、2年後に帰国。弟から「日本に行くべきだ」との話を聞き、Aさんの夫だけ1990年に来日した。

翌年に夫が一時帰国したが、体重が60kgから100kgに増加(ストレスだろうか)。夫は再び来日するが、1992年に脳溢血で倒れてしまう。Aさんは夫を看病しながら生活していたが、生活苦からデカセギを決意。1993年に従弟と愛知県に来日した。

仕事場まで往復3時間、勤務は12時間と過酷だったが、子供のためにも頑張った。ブラジルでの月給は約1万円だったが、日本では総支給24万円。毎月3万~6万円を送金できた。ちなみに電話代は月に5万円かかっていたとのこと!

1994年、子供に会いたくなり、ブラジルへ帰国し1年間アルバイトしたが、給料が安かったので再来日。働き続けたが、送金と電話代のために食費を削っていたため、1997年に倒れてしまう。緊急手術を受けた後も働き続けた。

そして2001年に子供が来日し、長男と長女も働き出す。2006年にブラジルで小さな家を購入。次女を大学に入学させることができた。しかし2008年にリーマンショックで仕事がなくなり(!)、ブラジルで孫も誕生。翌年ブラジルに帰国し、そこからずっとブラジルにいる。

「出稼ぎに出会わなければ、娘も大学に行かせることも、家族を養うこともできなかった。本当に感謝している。環境は悪かったが、とても嬉しい日々ではあった。これからまた出稼ぎに行きたい」とAさんはコメントしている。Aさんの年齢はわからないが、恐らく今は50代だろうか。波瀾万丈の人生だ。

スタッフが直接レクチャー! 日系ブラジル人の娘さんにも会った

それにしても、なぜ大泉町にブラジルタウンができたのだろうか? パネルの説明によると大泉町は「最初で最後の町単位で日系人を受け入れた町」だったという。元々、大泉町は製造業が盛んで、人手が不足していた。外国人の労働者がいないと町工場が立ち行かないほど。1989年には、合法的に雇える日系人を求め、大泉町で協議会を立ち上げ、町ぐるみで外国人受け入れ態勢を作った。

しかし、製造業が盛んな町は日本にもたくさんある。なぜ大泉町なのか? スタッフの方がおられるので、思い切って訊ねてみた。二人とも女性で、一人は30~40代、もう一人はピンク髪の若い娘さんだった。

「大泉町は群馬県の中でも一番小さい町なんですけど、そこに大手企業が集中しているんです」と年長の方がスラスラ答えてくれる。大泉町は、パナソニック、スバル、ハナマルキ、味の素etc……こうした企業がひしめき合っている工業地帯の一部である。

「なので、ここに労働者をぎゅっと集めたいという希望があって。当時の町長や国会議員が力を入れて、特にこの地域に労働者を受け入れたっていう経緯があるんです。他にも愛知や静岡とか色々工業地帯はあると思うんですが、そこは県も市も大きいので。大泉町のようにピンポイントで、スポット的に人が欲しいという条件とはちょっと違ったのかなと思います」

なるほど。一極集中していたというわけだ。

「割合とすると、この街の人口が4万人程度しかいないんですけど、その中で4000人ぐらいがブラジルの方なんですよ。次いでペルー人が600人ぐらい、次がベトナム人という形で、今45か国ぐらいの多国籍な街なんです。人口密度で言うと外国人の割合が多くて、今2割を占めています」

ちなみに、ブラジル人が最も多く住むのは浜松市で9203人、以下、愛知県豊橋市、同豊田市と続き、大泉町は4243人で4位(パネル資料より)。では、最近もブラジルの方は増えているのだろうか?

「今はあまり増えてないですね。今から新たにブラジルから来日するとなると(日系)4世の時代になります。となると、もうあちらでの生活が長くて、慣れてしまっていますし、日本語もあまりできなかったりします。
物価も1990年頃よりは日本とそんなに変わらないです。当時ブラジルの景気がすごく悪くて、日本がすごく良かったっていうのもあって、どんどん受け入れていたわけですが」

日本に来た方に関しても行き来が少なくなっているそうだ。

「日本での生活に慣れたこともありますし。ブラジルの治安の問題とか、お子さんが日本の学校を卒業しているとなると難しいです。特に日本で育った子はブラジルでの生活はなかなかできないと思うんですよね」

すると、隣におられるピンク髪の娘さんを向いて「彼女も日系ブラジル人で大泉町生まれなんです」と言う。私も妻も驚いていた。てっきり日本の方と思っていたのだ。

娘さんは「ブラジルの言葉は話せないです」とのこと。22歳で大泉町の仕事をしており、一度もブラジルに行ったことがないそうだ。

年長の方は「デカセギから30年以上経って、こういう子が育っています。でも国籍はブラジルのままで、帰化しないと日本人にはなれないんです。選挙に参加できない、行政の仕事に就けないという点はあるんですけど、永住権や定住権は持っているので生活する分には何一つ日本人と変わらなく生活できています。例えばベトナムの方とかは就労制限があるんですけど、日系ブラジル人の定住者は就労制限もありません」という。

今ではブラジル人向けの店を日本人も利用しているし、ブラジルの方も日本のお店を普通に利用している。日本のスーパーにもブラジルコーナーがあったりするという。「生活に分け隔てはないかもしれないです」とのことだ。

↑観光協会にあった告知。この他にも3~11月の第4日曜日に“いずみ緑道 花の広場”でサンバステージや様々な国の料理と雑貨が楽しめる「世界のグルメ横町」が開催されている。他国の人との共生は難しい、が、肌感覚的に大泉町は上手くいっている方ではないかと思う。

明治から令和まで、100年の歴史とバイクに思いを馳せる

お礼を言って観光協会を後にした。スタッフの方は、何度も来場者から訊かれていることもあるのだろうが、非常に理路整然とした説明だった。もちろん大泉町の「顔」となる場所だけに、優秀な方を配置しているに違いない。一つ注文をつけるとすれば(難しいのだろうけど)、もうちょっと資料に当時の写真があると見やすいかなーとも思った。

あ、観光協会を出てから気が付いたのだけど、お二人の写真を撮るのを失念していたことが悔やまれる……。

それにしても明治から昭和、平成、そして令和と100年以上にわたる時代のうねりを一挙に凝縮して味わった。明治にブラジルへ渡った日本人、その子孫が昭和にデカセギで来日し、その子供たちが現代のブラジルや日本に生きている。まるで壮大な旅のようでもある。不思議な感慨とともに軽くめまいがする笑。

↑1920年から2060年まで、日本在住者の見通しも展示されていた。


これまでの100年で様々なモノが変わり、もちろんバイクも大きく変わった。これからの100年がどう変わるかは見当もつかないが、経済に翻弄されたり、衣食住の生活があったり、孤独や結びつきがあったり。そんな人間の根っこの部分は今までの100年と同じように、これからの100年も変わらないだろう。そして感情をゆさぶるバイクという乗り物も、パワートレインが変われど存続する気がする。

さらに、日本でも経済が悪化すれば、外国にデカセギする時代が来るのかもしれない、とボンヤリ考える。いずれにせよ昔より電話代が安くなった(ネットならタダ)のはいいことだ笑

↑ちなみに100年前(1920年前後)のバイクはこんなカンジ。写真のハーレーWスポーツモデルは並列2気筒600ccで8馬力だった。

↑コッチはBMWのR32。水平対向2気筒486ccで8.5馬力だった。スタイルはともかく、性能は現代と全く違う。

 

――続きは次回! 「一体なんの連載なんだ?」という感想はごもっとも笑。もちっとだけ続くんじゃ! 次回、最終回(たぶん)!

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