大人の事情が見え隠れする馬力自主規制の影響により、1992年いっぱいでレーサーレプリカ、いや全ての250㏄バイクは2スト、4ストを問わず最高出力が40馬力以下となりました。各メーカーはパワーダウンへ真摯に対応して魅力を維持しようと努めますが、すでにユーザーの心は遠くへファラウェイ。人気を誇った大ブランド“FZR”も、その流れには抗いきれなかったのです……。
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レーサーレプリカブーム、終わりの始まり
1994年3月22日、ヤマハ「FZR250R」の最終型が発売を開始いたしました。
メカニズム的には40馬力化された1993年型をキャリーオーバーし、今見れば非常に“時代”を感じさせるブラッシュパターンのグラフィックにホイールと同色のパープル系をなじみこませたモデルで本当にスキのない仕上がり具合。
まさに筆者がよく使うフレーズ「いちいちカッコいいヤマハ」の面目躍如たるスタイリングであり、ヤマハ250㏄並列4気筒レーサーレプリカの最後(※あくまで2023年7月現在←新生250㏄4発、期待してますよヤマハさん!)を飾るに相応しい完成度でした。
「FZR250R」のメーカー希望小売価格は税抜きで59万9000円。
同時期のライバル、ホンダ「CBR250RR」が同62万円、
カワサキ「ZXR250」が同60万9000円でしたから
プライス的には一番お安かったくらい……というか今考えると、どのレーサーレプリカモデルだって内容を考えれば信じられないくらいにロープライス(貨幣価値が変化していることを考慮しても)ですよね!
……駄菓子菓子、当時、大多数のライダーは(現在の視点でみれば)割安感全開な“40馬力のレーサーレプリカ”には見向きもせず、大ブームとなっていたネイキッドスポーツに“チョーお熱”だったのです。
バンディットという美学【後編】でも触れましたが、1992年以降に実施されたレーサーレプリカを狙い撃ちしたかのような250㏄、400㏄に対する厳しい馬力抑制化(名目上は日本自動車工業界とメーカーとのすり合わせによる自主規制……ですけれども、背後には旧運輸省などの行政指導があったと言われています)はライダーの意識を一変させるには十分なものでした。
それはそうでしょう、250で60万円、400なら80万〜90万円前後になろうかというレーサーレプリカを新車で購入後、さらに数十万円を追加して生粋のレース仕様としてサーキットのみをガンガン走らせる人というのは、全購買層のうちでもほんの一握り(←なおかつ激減の一途)。
かくいうクローズドコースで激しくシノギを削る世界があることは知っているし憧れてはいるものの、「ゆくゆくはライセンスを取得してバトルしてみたいなぁ」というちっとも来ない“いつか”を夢見つつバイトで稼いだ大枚をはたいてご購入。
スロットルをこわごわ開けて途端に始まる急加速に、「うお~、すごいすごい。いつかコイツをしっかり乗りこなせるよう練習しよう~」と日々新たにゼロスタートから頑張り続けるスペック比較大好きな自称フレディ、自称ケニー、自称ケビン、自称アントン(!?)たちに売れていたのが、レーサーレプリカというジャンルでした(筆者自身がそうだったので、よ〜く分かるのです)。
パワーダウンしたレプリカなんて……(当時の総意)
最新モデル=先行していたライバルを圧倒するパワフルさがあるのは当然!というレプリカ信者達のサイフのヒモを緩め続けていた“正のスパイラル”が突然断ち切られ、4スト250クラスで言ったら、ひと昔前のVT250Fと同じ40馬力というスペックに心がときめかなくなってしまうのは必然でした。
「だったら“旬”のネイキッドに乗るべ」、「んだんだ、価格も割安だしな」となってしまうのは、ある意味で当たり前の流れだったのですね。
現金なもので、その頃のバイク雑誌も企画の大多数はネイキッドバイク関連で埋め尽くされており、ぶっちゃけ、当時モーターサイクリスト編集部に在籍していた筆者が最終型「FZR250R」に触れた機会は1回のみ。
それもライバル比較インプレッション取り……とかの試乗モノではなく、先輩編集部員がライディングウエア紹介企画での“にぎやかし撮影”用に広報車を借りて、返却前に行う満タン洗車(MC編集部内用語で「マンセン」)を担当したときの記憶しかないのです。
もちろん会社から数百メートル先にあるガソリンスタンドへ直行することはなく、給油前に東京湾岸プチツーリングをカマしたことは言うまでもありませんけれども(汗)。
そのときの印象は後で述べるとして、ヤマハだって大きな時代の変化をただ傍観していたわけではございません。
え〜い、もうヤケだ(?)。裸族にしちまえ!
本来はレーサーレプリカ向けとして多大なる投資をして開発した250㏄並列4気筒DOHC4バルブエンジンをネイキッドバイクに落とし込むという、バンディットやバリオス、ジェイドやホーネット同様の方程式をヤマハも踏襲したのです。
それにより具現化されたモデルが1991年2月に登場した「ジール(ZeaL)」でした。
いやぁ、気合いが入っていましたね~。
搭載されていた並列4気筒エンジンは、もちろん45馬力版FZR250Rをベースにしたものだったのですけれど、翌1992年から実施される40馬力規制へ前倒しで対応するため大規模な改良が行われていました。
EXUPを取り外した4-2-2レイアウトの右2本出しマフラーを導入し、キャブレターのセッティングや吸気系の取り回しも最適化。
肝心のパワーユニット内部もバルブタイミングやミッション変速比などにバッチリ手を加えることで、最高出力40馬力を1万2000回転で(FZR250Rは45馬力/1万6000回転)、最大トルク2.7㎏mを9500回転で発生(同2.5㎏m/1万2000回転)する仕様へと転生完了です。
上記のとおり最高出力は大幅にダウンしましたが、なんと最大トルクは0.2㎏mも増大しており、ヤマハ開発陣の気合いの入りっぷりが数値からも伝わってまいりました。
そのエンジンを搭載する車体もこれまた並々ならぬ情熱の塊で、スチール製のダイヤモンド型フレームは当然のごとく専用設計。
リヤ2本サス採用を見越した強固なシートレールを採用しつつ、シート高はFZR250Rと同じ735㎜という低さを維持。
そして外装は「ジャンプするイルカ」をイメージしたというGKデザイン謹製のスタイリッシュフォルムがイケてます(1991年のグッドデザイン賞も獲得)。
ついでに言えばイメージキャラクターとして当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったイケメンタレント加勢大周さんを起用して、「シャイなあんちくしょう」というタイアップ映画まで製作し、並々ならぬ宣伝コストもかけられておりました。
さっそく借り出した「ZeaL」(←熱中するという意味。Lが大文字なのは正式な車名表記)広報車に筆者がまたがってみると、とにもかくにも乗りやすい!
パイプハンドルを採用したアップライトなライディングポジションにリラックスをしつつ、ヒュ~~ン!と低回転域から湧き出る快音と太めの低速トルクとともに走り出せば、荷重移動うんぬんなんて難しいことは考えなくても、ハンドルさばきだけで軽快に曲がっていくではありませんか~。
「こんちくしょうめ。ブチ熱中しちまった、いい出来じゃあ! こりゃ大ヒット間違いナシじゃのう!」とモーターサイクリスト編集部で中堅アルバイトになりつつあった筆者も偉そうに確信し、周囲のバイク悪友たちへジールの魅力をさんざっぱら言いふらしたものです。
……が、ギョーカイ関係者全員が驚くほどに売れませんでした。
馬力自主規制の猶予期間を最大限に活用して1992年いっぱいまで45馬力仕様を売り続けたスズキ バンディット250とカワサキ バリオスは順調に販売台数を伸ばし続け、真面目(?)に1991年型から40馬力としてデビューしてきたホンダ ジェイドとヤマハ ジールは完全に失速……。
馬力の差だけが販売の差だとは言い切れませんけれども、まだまだスペック至上主義がライダーの脳内に少なからずはびこっていた時代ではあったのです。
結局、ジールは1992年3月に細かなマイナーチェンジを受けたあと細々と売られ続けていきますが、気が付けばラインアップ落ち(ちなみにホンダは1996年にホーネットを発売して、一気に250並列4気筒ネイキッドスポーツのメインストリームへと躍り出ます!)。本当にバイクビジネスというのは難しいものです。
責務をまっとうしたFZR250Rは最終楽章へ……
と、筆者的にも思い入れのあるジールへのレクイエムが長くなってしまいましたが、FZR250Rのフィナーレを飾る40馬力版……1993年型(3LN6)と1994年版(3LN7)は、そのジールのエンジンをベースにヤマハ開発陣最後の意地が注入されたものなので、ぜひ触れておきたかったのです。
具体的にはバルブスプリングやミッションなどのパーツを40馬力規制を受ける前のFZR250Rに使われていたものへと戻しつつ、キャブレターや点火時期、EXUP作動の設定などを事細かく入念にリセッティング。
結果、最高出力を発生するポイントはジール比で2000回転上乗せされて、40馬力/1万4000回転。
最大トルクはジール比で0.1㎏mダウンの2.6㎏mとなり、そちらを500回転高い1万回転で発生……って少々分かりづらいですね。
シンプルにFZR250Rどうしで比較すると最高出力は45馬力/1万6000回転→40馬力/1万4000回転。
最大トルクは2.5㎏m/1万2000回転→2.6㎏m/1万回転となり、なんと規制後のほうがトルクフルに仕上がっており、低速域からの加速性能は40馬力モデルのほうが鋭いという状況に……
乗り手に優しい最先端マシンを最後まで開発して提供!
ここで話は40馬力最終型FZR250R、東京湾岸(ガソリン補給前)プチツーリングへと戻ります。
「オガワぁ、……まぁ、適当に走ってきてもいいから17時までにマンセン完了よろしく」と、ウエア企画を担当した先輩編集部員からのリクエストを14時過ぎにいただいた26歳の下っ端MC編集部員である筆者は、数百メートル先にあるガソリンスタンドを迷うことなくスルーし、佃大橋を駆け抜けて昨年(1993年8月)に開通したばかりのレインボーブリッジが待つ湾岸方面へとハデハデなFZR250Rを走らせました。
「ん? これってホントに40馬力仕様なの????」と頭に疑問符が何個も出てくるくらい、発進加速から次の信号までといった都市部を“流す”領域では本当に使い勝手のいいパワフルさが続きます。
あえてギヤチェンジせず高回転域までひっぱってみても、ジールより確実に一枚上手の吹け上がり感!
さすがにレッドゾーン近辺になると“回っているだけ”といった印象が増してきますけれど、開発陣が手塩に掛けて調律を済ませた澄んだエキゾーストノートは乗り手を確実に高揚させてくれます。
まぁ、どのみちそんな超高回転域なんて市街地では無用の長物ですしね……。極低速域からのトルクアップのほうがよほどうれしく、なんちゃって信号グランプリでもその威力は絶大でした。
ハンドリングどうこうを語れるようなルートではないものの、ちょっとしたカーブをコーナリングしてみても全身に伝わるカチッとした剛性感はサイコー!
“ヤマハワークス直系のイイモノ”に乗っているという満足度の高さはやはりたまらないものがありましたネ。極太のアルミデルタボックスフレームは見た目が美しい上に形状も繊細なので、信号待ちのたびにのぞき込んでは手でも触れて、ニヤニヤが止まりません〜。
ただ、深く感動はしたものの平成6年の筆者は、「う〜ん、コイツってチョー大人気のCB400SF(ツートーン)と全く同じ59万9000円なんだよなぁ。今はやっぱりそっちを選ぶよなぁ……」と考えつつ満タン給油した後、編集部に戻ってきて何だか割り切れない気持ちとともに洗車を開始したもの。
しかし、令和5年の筆者なら間違いなく「FZR250R」を選びます。
レーサーレプリカは後世に伝えるべき“走る文化遺産”だとも考えておりますし……。
時代の証言者(車)を手に入れるには、今がラストチャンスなのかもしれません!
あ、というわけで「FZR250R」は45馬力仕様だろうと40馬力仕様だろうと、永遠(とわ)の価値を持つヤマハ開発陣こだわりの結晶だと言っても過言ではありません。延べ台数にすればとんでもない数となる車両を販売し、かつメンテナンスしてきたレッドバロンには現場から吸い上げられた膨大な知見がデータとして蓄えられており、アナタだけの1台を力強くサポート。ぜひお近くの店舗で在庫の有無や疑問点、不明点ほか何だって質問してみてください!