晴れ渡った北東北のとある春の日、岩手県盛岡市在住の旧友Tを誘って秋田県の田沢湖へとツーリングに出かけた筆者。途中、峠の茶屋で名物おでんに舌鼓を打った後、ついに田沢湖へ到着。せっかくなので湖沿いを一周するのでありました。

湖を一周するなら反時計回りで

 田沢湖は湖を取り囲むように県道が整備されていて、ぐるりと一周することができます。一周約20㎞なので、時速40㎞/hで走ると30分ほどで完走してしまいます。
 それはもったいない、ゆっくり楽しもうじゃないかということで、湖畔でのんびりしたり、観光スポットに立ち寄ったりしながら反時計回りで走行開始。

田沢湖

 湖を一周するなら、反時計回りがいいんですよね。日本は左側通行なので、反時計回りで走れば左手すぐに湖が見えます。
 これが時計回りだと、右手に湖は見えるんだけども、湖の前に対向車線がずっと続くことになる。
「キレイな景色だなあ、湖面が鏡のように青空を映してるじゃないか」
 なんて走りながら感心してると、その目の前をクルマがびゅんびゅん横切っていく。時計回りだと、そうなっちゃうのです。
 反時計回りなら、眺めたい景色のすぐ前をクルマが通り過ぎるなんてことがありません。

 ただし、これが海沿いを走る場合は、逆。
 半島で考えてみましょうか。海沿いを一周する際、時計回りで走れば、目の前の海の景色を対向車に邪魔されることがありません。
 北海道一周、四国一周、九州一周、さらには日本一周もそうです。時計回りだと、目の前はすぐ海。そのほうが気持ちいいですよね。

日本一深い湖「田沢湖」

田沢湖

 湖畔にバイクを停めて休憩。穏やかな天気、風もないので湖面が波立たず、本当に鏡のようです。
「田沢湖って、日本一深い湖だってこと知ってる?」
「知ってる」
「湖底が海面より低いってことは?」
「そうなの!?」
 そうなのです。びっくりするでしょう。しない? 田沢湖が、どれだけ深いかって話ですよ。
 田沢湖の湖面標高は249mなのに、最大深度は423.4mもあるんです。湖底が海面よりも174.4mも低い。
 日本列島を頭の中で真横にズバッと切ってみてください、田沢湖のあたりで。すると左側に日本海、右側に太平洋の海面が見えますよね? その真ん中に日本列島があって、田沢湖のところが真下に深くえぐられていて、湖水がなみなみとたまっています。その湖底が海面より170m以上も低いのです。
 信じられます? 「すげーな」としか言いようがありません。

田沢湖

 田沢湖は、ただこうして湖畔にバイクを停めてのんびりするだけでも気持ちがいいものですが、観光客に人気のスポットもたくさんあります。
 今回はその中のひとつ、旧「潟分校(かたぶんこう)」をご紹介。田沢湖を時計に見立てたとして、ちょうど6時のあたり。東西南北で言えば、南の位置にあります。

思い出の潟分校

思い出の潟分校

 C125の奥にある古い木造校舎は、昭和49年(1974年)に廃校になった「潟分校」。旧田沢湖町立生保内(おぼない)小学校の分校だった建物です。
 これがのちに修復され、平成16年(2004年)に体験学習施設「思い出の潟分校」として一般公開されるように。
 学校の校門をくぐり、校庭の脇にある駐車スペースにバイクを駐めて、いざ、校舎内へ。下駄箱でブーツを脱ぎ、観覧料500円をお支払いして廊下を進みましょう。

思い出の潟分校

 懐かしいなあ、木の廊下ですよ。窓枠もアルミサッシじゃなくて、木製です。筆者と旧友Tが通っていた小学校も、当時はこんな状態でした。
 廊下の水飲み場の前を歩いていたら、足がズボッと床を突き破ったことがあります。しょっちゅう水浸しになっていたから、床板が腐っちゃったんでしょうね。そしてついに強度が保てなくなり、運悪くそこを通った筆者が被害者になった、と。靴下が赤い血で染まり、かなり痛かったのですが、保健室の世話にはならなかったなあ、なんて何十年も前の記憶がよみがえってきました。

思い出の潟分校

 教室に入ると、そこも昭和49年のまま。机も椅子も、木製です。鉛筆で天板に落書きしたり、彫刻刀で削ったりしたよなあ。
 掃除の際、机を片付けていると、誰かの机の引き出し(と言っても、引き出せない構造だけど)の奥からガビガビの食パンが出てきたりして、何だよ給食で食べきれなかったのならオレにくれよ、なんて、当時の記憶が次から次へと湧いて出てきます。可愛かったクミちゃん、いま何してるのかなあ。

思い出の潟分校

 座ってみたら、机も椅子も小さいこと小さいこと。
 目の前のストーブは薪ストーブです。昔はこの薪ストーブの上に大きな金ダライ(ドリフのコントで天井から落ちてくるやつ)を置いてお湯を沸かし、そこにひとクラス分の瓶入り牛乳を入れて温めてたよなあ。そして給食の時間に飲んだっけ。ミルメーク(粉末のコーヒー牛乳の素)が給食についてきた日は幸せだったなあ。

芋づる式に当時の記憶が

思い出の潟分校

 そのほか「思い出の潟分校」では職員室や体育館も見学。休み時間に職員室へ行くと、教師の吸うタバコの煙で目の前が真っ白でした。あのころは成人男性の8割はタバコを吸ってたんじゃないかな。
 駅のホームでもタバコが吸えたし、電車が来るまでスーパッ、スパッ。吸い終わったらホームにポイ捨て。そしてホームの脇にはホーロー製の壺があって、「これなんの壺なんだろう」と開けてみたらタン壺で「オエーッ!」ってなって「ギャフン!」と腰を抜かしたことを思い出しました。
 体育館といえば、小学生低学年のころは体操着に着替える際、男女一緒の教室で着替えていたような記憶が……、いいのかそれで!?
 とにかくもう「思い出の潟分校」にいると、当時の記憶が芋づる式にズルズルと出てきてしまって収拾がつきません。

思い出の潟分校

 潟分校が廃校となった昭和49年といえば、ルバング島から小野田少尉が帰還し、スプーン曲げが話題となり、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』をマネして日本中の小学生がアチョーと叫び、百恵ちゃんの「ひと夏の経験」で男子生徒はドキドキし、長嶋茂雄が「我が巨人軍は永久に不滅です」と引退した年でした。
 みなさんも気軽にタイムスリップしたければぜひこちらまで。

 

 

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